ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「神の恵みと人間 自然と恩恵についての小カテキスム」アンリ・ド・リュバック著 はこんな本だった

【ザックリとしたまとめ】「受肉の秘儀」によって、創造主と被造物の《完全な一致》が成就した。けれど、この《完全な一致》は、被造物が創造主によって強制されることではない。「神の業」によって成就した《完全な一致》は、強制ではなく、自由なる《変容》を意味している。また、「贖罪の秘儀」によって、被造物に「罪の赦し」がもたらされた。これは、「自分(人間)中心」から「神中心」に立ち返ることによって成し遂げられる。

「神の恵みと人間 自然と恩恵についての小カテキスム」アンリ・ド・リュバック著 堤安紀訳 サンパウロ 1998年9月30日初版

はじめに

 本書は、ワタクシにとっては難解で(特に訳が読みづらかった)、ちと荷が重すぎたきらいがある。
 少しでも理解を深めたかったから、知恵熱が出るほど苦労してまとめてみたのだが、作品をちゃんと消化しきれていないので、失敗作の匂いが濃厚である。
(特にまずいと思うのは、作者の考えとブログ主の考えが、ゴッチャになっている点である。難解な文を読み解いて、「これはこういうことだ」と一応まとめてみたのだが、ブログ主が消化不良を起こしているので、それは単なるブログ主の考えにすぎなく、作者の意図した考えとはかけ離れてしまっている可能性が高いのよ。トホホ。)
 でも、まぁ、せっかく時間をかけて記事にしたわけだし、このままボツにするのもモッタイナイので、素知らぬ顔をしてブログに上げてしまうのだ。

「自然(本性)」と「超自然的なこと」

 本書においては、「自然(本性)」「超自然的なこと」という二つの《対》する要素について語られている。

 この二つの概念を簡単にまとめるとすれば、次のようになろう。
 「自然(本性)」に属するのは、被造物、人間、人間の業、不完全さ、罪、人間の解放。
 「超自然的なこと」に属するのは、創造主、神、神の業、完全さ、恩赦、キリストにおける救い。

 そして、「自然(本性)」と「超自然的なもの」という二つの要素は、シッカリキッパリ区別される必要があるという。
 さらに、この二つの要素の間には深い深い《深淵》があるのだが、もし人間が同意するのであれば、それは《緊密な一致》の関係に変わるのだ、ということが述べられている。

 そして、この《緊密な一致》こそ、「受肉の秘儀(キリストの降誕)」によって成し遂げられたものなのだという。

 つまり、「神であり、人である」キリストこそが、「自然(本性)」と「超自然的なこと」の《緊密な一致》をこの世にもたらした存在だ、ということである。

キリスト教的「謙遜」

 「謙遜」という《徳》こそ、キリスト教の根幹になる教えなのだという。

謙遜を単なる倫理的徳の一つとして理解してはならない。謙遜は、教えのすべてがその上に築かれる基盤となる、根幹的な心構えである。テイヤール・ド・シャルダンが「恩恵による人間の神化」について述べるときに、まさにこのことに注目していた。「これからそこで成し遂げられるのは、単なる一致以上のこと、ある変容であり、その間に人間がなし得るすべてのことは、謙虚に心構えをし、受容することである」。別な言い方をするなら、ーー恐れることなしに次のように言えようーーこの謙遜は受動的な徳である。つまりそれは、「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく」生まれたもの(ヨハ1・13)、「この降りて来られた方」(エフェ4・9−10)を受け入れる心構えである。
「二 結果」(p.39−40)

 キリスト教以前の古代世界においては、「謙遜」のような受動的な姿勢、「自分を無にしてしまう」ような姿勢は、《徳》としては認知されていなかった。
 古代人にとっての《徳》とは、これとは逆に、能動的な姿勢、「自分を押し出していく」姿勢を意味していたのである。

 しかしながら、キリストは、「自分を無にすること」の重要性を世の人々に伝えた。
 そして、このキリストの「謙遜」によって成し遂げられたものこそ、「受肉の秘儀(キリストの降誕)」なのである。

キリスト教の伝統において、この教えを聖アウグスティヌス程に確かな仕方でまた適切な表現で語った者は他にいない。アウグスティヌスは、《わたしは謙遜な者として来た。わたしは謙遜を教えに来た。わたしは謙遜の教師として来た》(Humilis veni, humiliatem docere veni, magisister humilitatis venis)とイエスに語らせている。その『告白』では「感嘆すべき交わり」「傲慢なる私たちのところにまで来て下さった主の謙遜により、私たちにその永遠の命が約束された」と注解している。
「二 結果」(p.44)

 つまり、この「自分を無にする」という、キリストの「謙遜」によって、「自然(本性)」と「超自然的なもの」の《緊密な一致》が実現したのである。

破壊ではなく変容させるために

 上述のように、キリストの「謙遜」によって、「自然(本性)」と「超自然的なこと」という対立する二つの要素の《緊密な一致》が実現した。

 ここで気を付けなければならない点がある。
 それは、「自然(本性)」と「超自然的なこと」の《緊密な一致》によって、「自然(本性)」が、「超自然的なこと」によって破壊され征服されることはない、という点である。

 本書には次のようにある。

ある者が十字架のヨハネと関連してそのことを述べたように、「超自然的なことは、自然(本性)の秩序を潤し、霊化する。にもかかわらず、それがこの自然(本性)の権利と豊かさを損ねることはない」。
(略)
神の御言葉は、人々の素朴な信仰のすべてを、あるいは人間の精神的文化的所産のすべてを破壊しながら征服するような、荒らし尽くす力として来たのではなく、全面的な刷新の要請として来たのである。聖アウグスティヌスはその考えを堅持し、ローマ人の諸徳とその徳の自然(本性)的な原則が「真の宗教」により浄化され完成されるのを待っていた、と『神の国』で説明している。
「二 結果」(p.58)

 私たちの生きる世界でよく目にする《一致》は、強者の意見を弱者に押し付けることによって成立する《一致》であろう。
 それは、弱者が強者に破壊され征服されるということである。

 けれども、キリストの「受肉の秘儀」によってもたらされた《緊密な一致》は、そのようなものではないのだ。
 確かに、キリストが、人間に関わることの「全面的な刷新の要請として来た」のは事実である。
 けれども、キリストにおける刷新は、押し付けや強制的な性格のものではなく、私たちが自分なりの自由な仕方で変わっていけるようなものである。
 つまり、私たちが「この降りて来られた方」を受け入れる時、私たちの《内面》にキリストが住み、それによって私たちは《内面》から変容していく、ということなのだ。

「解放」と「救い」

 上の引用にもあるが、キリストはやって来たが、それは「人間の精神的文化的所産のすべてを破壊しながら征服する」ためにやって来たのではない。
 言い換えれば、キリストは、「人間の業」を踏み躙るためにやって来たのではない、ということである。

 「神の業」は「人間の業」を刷新するためにやって来たのだが、これもまた押し付けや強制ではなく、《内面》から変容していくものなのだ。

 であるからして、私たちは「人間の解放」といったものと、「キリストにおける救い」とを混同してはならないのである。

 「人間の解放」と「キリストにおける救い」、どちらも《人間の望み》に違いないのであるが……。

 けれども、この「人間の解放」は、本質的には「人間の業」なのである。
 一方で、「キリストにおける救い」は、本質的に「神の業」である。

この神の御国は、「政治闘争により獲得されるものでも、思弁から推し量れるものでも」ないし、さらには道徳的努力により獲得されるものでもない。つまり、自分のためであれ世界のためであれ、「人にはそれを設計し、組織立て、造り、構築することができない」のであり、さらに人にはそれを「思い描くことも自分から現すことも出来ないのである。それは、授けられ、遺贈されるのである。我々に出来るのは、それを継承することだけである。神の御国の到来は奇跡であり、また神の業なのである」(マタ21・43、ルカ12・32、22・29参照)。
「二 結果」(p.69−70)

 繰り返しになるが、私たちは、「人間の解放」と「キリストにおける救い」、「人間の業」と「神の業」、つまり「自然(本性)」と「超自然的なこと」という二つの要素を、シッカリキッパリと区別していかなければならない。

 けれども、この二つの要素ほど、混同されやすいものはない。
 私たちは、無秩序を自由と履き違えるように、混同を《緊密な一致》と履き違えてしまうようである。

 《緊密な一致》によって、「自然(本性)」、あるいは「人間の業」は、その《内面》から変容される。
 けれども、混同によっては、こうした《内面》からの変容は起こらない。
 なぜなら、混同は、キリストを受け入れることをしないからである。

 そして、「キリストにおける救い」の名の下に「人間の業」を行なうという混同、この混同によって引き起こされるのが、押し付けと強制であろう。

恩恵、恩赦、贖罪の秘儀

 聖書には、「恵み(恩恵)」という言葉がたびたび出てくる。

 「恩恵」にはまた「恩赦を施す」という意味がある。またこの恩恵は、あわれみと赦しである(ヨナ4・2参照)。この場合、自然(本性)と恩恵の区別は、その第一段階においては、自然(本性)と超自然的なこととの間の一般的な区別の場合よりも、はるかに根源的な対立の関係にある。
「三 自然(本性)と恩恵」(p.77)

 「はるかに根源的な対立の関係」になってしまうのは、この「恩恵」への召命が、単なる「変容」への招きなのではなく、「自分(人間)中心」から「神中心」へと立ち返ることへの招き、いわゆる「回心」への招きだからである。

 本書には、次のように書かれてある。

 それ故、唯一完全に具体的であるこの新しい展望の下で、要約して次のように述べてよいであろう。つまり、自然(本性)と超自然的なこととの一致が原理的に受肉の秘儀により成し遂げられたのであるのなら、自然(恩恵)と恩恵の一致は、(キリストによる)贖罪の秘儀によって、初めて成就され得る。
「三 自然(本性)と恩恵」(p.79)

 「恩恵」、「恩赦」、言い換えれば「罪の赦し」は、「受肉の秘儀」のように、「謙遜」に受け入れるだけでは達成されないものだということである。
 キリストの十字架、「贖罪の秘儀」によって成し遂げられた「罪の赦し」は、自分を殺し(自分中心を避け)、キリストを信じる(神中心に立ち返る)時に達成されるもの、ということであろう。

罪と救い

 人間は《弱い》存在であり、その内奥には《悪》が潜んでいる。

そして、エスの弟子たちは師(イエス)から「何が人間の心の中にあるか」(ヨハ2・25)を学んだ。福音が「良き知らせ」であり、また人間が従うべき「良き知らせ」であるというのが本当のことなら、まさにそれは人が希望を取り戻すために、人間の自然(本性)の弱さと人間の条件を先染めしている悪に由来する二重の障害が克服されていたということを、人間が知る必要があったからである。
「三 自然(本性)と恩恵」(p.88)

 このように、キリストは、その弟子たちに、人間の「罪」についての教えを説いた。

 けれども、人間の「罪」、内在する《悪》について教えられたとしても、私たちが「自分(人間)中心」のままである限り、私たちはその事実に絶望するか、その事実から目を背けるかしかないであろう。

 内在する《悪》に目を向けつつ、希望し続けるためには「自分(人間)中心」から脱しなければならない。
 それ故に、キリストは、「罪」についての教えを、「罪の赦し」という教えとセットで伝えたのである。
 先に、「罪の赦し」は、自分を殺し(自分中心を避け)、キリストを信じる(神中心に立ち返る)時に達成されるもの、と書いたが、そうした「回心」を可能にしたのがキリストなのである。

 そして、「自分(人間)中心」を離れ、「神中心」に近づけば近づくほどに、人間の「罪」についての見識も深まってくる。
 つまり、神との関係性が深まれば深まるほどに、人間の「罪」もよく見えてくるのである。
 そのことから、「罪」の何たるかを最もよく理解している者は、罪人ではなく、聖人であると言えよう。

 「罪」を考える上で重要なのは、神と人との関係性である。
 つまり、「恩赦を施す神」と「罪人である人間」、この関係性を確認することが「良き知らせ」を耳にするための不可欠な条件なのだ。

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ロマ3・23、5・8)。
 陰鬱なドラマ、罪深き人間性を何一つ隠さないドラマ。血塗られたドラマ、そのドラマの頂点が、カルヴァリオの丘にある。この頂そのものも血塗られている。なぜなら、「血が流されずには、罪の赦しはないからである」。しかし信仰に関する限り、これこそ、輝ける大団円、和解の喜び、(神の)生命への回帰である。なぜなら、キリストのこの犠牲は、いつも贖罪と赦しを探求しながらもいつまでも無力であり続けた人間の造り事を決定的な仕方で廃棄して、すべての者に救いをもたらすからである(ヘブ9・28)。
「三 自然(本性)と恩恵」(p.89)

 人間には《弱さ》と《悪》があり、人間の努力によっては、これらを克服することはできない。
 それでは、いつまでも「自分(人間)中心」を脱することはできないからである。
 だから、人間は「贖罪と赦しを探究しながらもいつまでも無力であり続けた」のである。

 であればこそ「キリストにおける救い」が必要だったのである。
 この救いという「神の業」によって、「自分(人間)中心」から脱することが可能となった。
 つまり、キリストの十字架によって、神と人との和解が成立し、人間は「神中心」に立ち返ることが可能となったのである。

おしまい。