ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「回勅 人間のあがない主」教皇ヨハネ・パウロ二世著 はこんな本だった

【ザックリとしたまとめ】ヨハネ・パウロ二世最初の回勅。キリスト教にとっての「自由」とは、一般的解釈である「奔放」を意味しない。キリスト教の「自由」とは、キリストに近づく「自由」であり、それは「犠牲」と「奉仕」を伴うものである。また、キリストの「あがない」とは、神と人とのきずなが回復されたことを意味し、この和解によって人は「自分という存在」を正しく理解することが可能となる。

「回勅 人間のあがない主」教皇ヨハネ・パウロ二世著 カトリック中央協議会 1980年6月29日初版

はじめに

 今回取り上げましたる「回勅 人間のあがない主」は、ヨハネ・パウロ二世の最初の回勅なのだ。

 本回勅が出されたのは1979年、日本で言うとまだ「昭和」のころ(昭和54年)なのであるが、もうその頃から「紀元2000年の大聖年はもうすぐそこ!」ってなことを言っている。……教皇様ってばずいぶんと気が早い。ミレニアムにウキウキだったのかしら。

 ちなみに、本書の訳も、前回に引き続き、癖のある訳だったので、ブログ主はまたまた消化不良を起こし、不甲斐なきまとめ記事となっておりますのでご了承の程を。
 
 

「自由」とは何か

 本回勅をまとめる上で、まず「自由」とは何かについて考えていきたい。

 「自由」と聞いて、一体何を思い浮かべるだろうか。
 何者にも束縛されないこと?
 勝手気ままなこと?
 全裸になって踊り騒ぐこと?

 貴兄は、おそらくこのあたりのことを思い浮かべたことであろう。

 けれども本回勅は、本当の「自由」ってのはそんなんではないのよ、と言うのである。

 今日は往々にして、自由がそれ自体目的であり、人間は望むままに自由を求めるとき自由であり、したがって、そこに個人的かつ社会的生活の目的がなければならないと誤って考えられています。しかし、自由は、すべて真に価値あるもののために自覚してそれを用いるときにだけ大きなたまものです。実際キリストは、自由の最善の使用が犠牲と奉仕に具体化される愛であるとわたしたちに教えています。キリストは、このような「自由を得させるために、わたしたちを自由にしてくださったのです」。
「四 教会の使命と人間の運命」(p.79−80)

 私らは、手っ取り早く「自由」を実感するために全裸になりがちだが、どうやらこうした全裸の「自由」はキリスト教的な「自由」ではないらしい。

 まあ確かに、街中で全裸になって踊り狂ったとしても、束の間の「自由」の体験はできるかもしれないが、すぐにおまわりさんに逮捕されるというリスクもともなっている。
 これと同様に、先の「束縛されないこと」であったとしても、「勝手気ままなこと」であったとしても、こうした「自由」もまた束の間の「自由」の体験でしかないように思われる。

 けれども、キリスト教的な「自由」は、そのような束の間の「自由」ではない。
 本書には次のような記述がある。

 イエス・キリストは、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」という同じことばをもって、各時代の人間に出会います。
このことばは根本的な要求と同時に警告を含んでいます。すなわち真の自由の条件としての誠実な精神の必要と同時に、すべての見かけの自由、皮相で一面的な自由、人間と世界に関する真理の全体を理解していない自由を退けるようにという警告を含んでいます。
「二 あがないの秘儀」(p.32)

 キリスト教的な「自由」を実感するためには、まずキリストに出会わなければならないのだ。

 束の間の「自由」は、キリストなしであっても、私らの鋭意努力によって生み出せるものであるが、キリスト教的な「自由」はそんなんではなくて、神の「たまもの」、つまりキリストからの「プレゼント」として私らに与えられる「自由」なのである。

 そして、この神からの「自由」に比べれば、先の「束縛されないこと」や「勝手気ままなこと」、あるいは「全裸で踊り騒ぐこと」といったような人間による自由は、束の間の「自由」、「見かけの自由、皮相で一面的な自由」にすぎないと言うことになるのである。

 であるからして、繰り返しになるが、このキリスト教的な「自由」を実感するには、キリストに心を向けることを必要とするのだ。

 愛する兄弟、信者の皆さん、ここでわたしたちは根本的かつ本質的な答えを求められています。すなわち、わたしたちの精神の動向、わたしたちの知性、意志、心の方向は、わたしたちのあがない主である一人のキリスト、人間のあがない主キリストに向けられねばならないということです。
「二 あがないの秘儀」(p.18)

キリストの「あがない」とは何か。

 タイトルにもあるように、イエス・キリストこそが「人間のあがない主」なのである。

 では、キリストがもたらした「あがない」とは一体何なのであろうか。

 一言で言うと、それは「神と人間との和解」である。

 まあこう言われても「まてまて、そもそも僕は神様と仲たがいした記憶がないゾ!」と叫びだす貴兄も多いことだろう。
 けれども、キリスト教の教えでは「神と人間の関係は、人祖アダム以来、傷ついたものになっていた」というのが定説であり常識であり原則なのだ。
 また、このアダムっちの不従順によって神と人間の関係は断ち切られ、それによって私ら人間の世界に「罪」や「むなしさ」が入り込んできた、というのも常道の教えである。

 そして、この「罪」と「むなしさ」のはびこっていた世界にキリストが降り立って、十字架という「死に至るまでの従順」によって世界は完全に「あがなわれた」、つまり「神と人間との和解」が成立した、というのがキリスト教の教えの根幹なのである。

イエス・キリストにおいて神が人間のために造られた見える世界、罪がそこに入ったときにむなしさのもとに置かれた世界は、イエス・キリストにおいて再び英知と愛の同じ神的起源との本来のきずなを取り戻しました。実際、「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」。このきずなは人間アダムにおいて断ち切られたように、人間イエスにおいて再び結ばれました。
「二 あがないの秘儀」(p.20)

 こう言われても「まてまて、神とのキズナなんて取り戻せていないじゃないか、だって僕は全然むなしいままだゾ!」と叫び出す貴兄も多いことだろう。

 けれども、「神と人間の和解」が成立し、神から与えられるようになったのは、繁栄や権力といった「セレブ的な幸福」なのではないのだ(これらこそ私らが切実に求めているものだが)。

 とどのつまり、キリストの「あがない」によって再び与えられるようになったのは「神の愛」、これひとつなのである。
 手に入るのは、神の愛、ゴッドのラブ、ディオのアモーレ。
 「アイ?愛だって? そんなものよりオゼゼの方が断然いいよ!」と言う叫びを貴兄は抑えられないだろうが、もうちょっと待って話を聞いてほしい。
 
 このことをわかりやすいように言い換えれば、次のようなるだろう。

 アダム以来、人間は神から断ち切られ、「むなしい」状態、つまり「からっぽ」の器のようになっていた。
 そして、キリストの十字架によって、この「むなしい」器に、「神の愛」というぶどう酒が再び注がれ、器は満たされるようになったのである。
 これがキリストがもたらした「あがない」である。
 
 けれども、「あがなわれた」とはいえ、人間という器自体は、相変わらず雨風にさらされているのに変わりはない。
 そして、この雨風が私ら人間を苦しめるのだが、キリスト自身もこの雨風にはさらされていたのである。

 つまり、「セレブ的な幸福」は、器を覆うことによって雨風をしのぐことだと言えようが、キリストの「あがない」は、器を囲うことではなく、器に注ぐことであったのである。

 器は囲われるためでなく、注がれるために存在する、とキリスト教は言いたいのだろう。

 であるから、人間の「むなしさ」を解消するのは、「セレブ的な幸福」つまり繁栄や権力などではなく、「神の愛」だと言うのがキリスト教なのである。

 人間は愛なしに生きることはできません。人間にもしも愛が示されないなら、人間がもし愛に出会わないなら、もし愛を体験しないなら、もしそれを自分のものとしないなら、もしそれに心からあずからないなら、人間は自分自身にとって不可解なものであり、その生活は意味のないものです。
「二 あがないの秘儀」(p.24)

 とはいえ、「神の愛」なんかを求めず、より実感できる繁栄や権力を求める人々にとって、今のこの説明は到底納得できないものではないだろう。

 けれども、キリストに出会った者らは「むなしさ」を満たすため、そして自分自身を再発見するために、あがない主であるキリストに心を開き、彼に近づいていかねばならないのである。

それで自分を…徹底的に理解したいと思うならば、自分の不安と疑惑、自分の弱さと罪、自分の生命と死とともにキリストに近づかねばなりません。人間は、いわば自分の全存在をあげてキリストの内に入らねばなりません。自分を再び見いだすために、託身と贖いのすべての真理を受け入れ、自分のものとしなければなりません。
「二 あがないの秘儀」(p.24−25)

 以上、おしまい。