ハキダメ記

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「キリスト教とシャーマニズム なぜ韓国にクリスチャンが多いのか」崔 吉城(チェ・キルソン)著 を買った

【ザックリとしたまとめ】韓国のキリスト教は一風かわっていて、その特徴は「シャーマニズムとの混合」にあるという。そして、この韓国人の「熱狂」的な信仰は、アメリカ生まれのキリスト教と馬が合っていたようである。今回の記事では、森本あんり氏の『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』を引き合いに出し、韓国とアメリカの「熱狂」的な信仰について考えてみた。

キリスト教シャーマニズム なぜ韓国にクリスチャンが多いのか」崔 吉城(チェ・キルソン)著 ちくま新書1598 2021年9月10日初版


 本書は「韓国」における「キリスト教の特徴」を取り扱った新書である。

 お隣の国、韓国は「キリスト教大国」であるらしい。
 本書によれば、韓国においては、キリスト教が「第一宗教」であり、韓国国民の30%近くがクリスチャンであるという(本書の記述によればプロテスタント=19.7%、カトリック=7.9%)。

 筆者の崔 吉城(チェ・キルソン)氏は、韓国の「シャーマニズム」を研究している人物である。
 同時に崔氏は、プロテスタントの「キリスト教徒」でもある。

 そんなが経歴を持つ崔氏が、自身のキリスト教徒としての経験をふまえながら、韓国のキリスト教を分析したものが本書である。
 そして、崔氏が見いだした「韓国キリスト教の特徴」、それこそが《シャーマニズムとの混合》なのだ。

韓国においてシャーマニズムは消滅せず、キリスト教会の中核部分に息づいている。先ほどの牧師は再三にわたって「巫病の聖霊体験を通して伝道師になった」と言い、私は少々辟易したが、信者たちの反応は非常に良かった。私にとってこれは、シャーマニズムが韓国の人々の潜在的な宗教感情であることを確認する良い機会となった。
「第5章 シャーマニズムキリスト教の調和」(p.175)

 そして、「シャーマニズム」というプリミティブな宗教感情を持つ韓国人にとっては、アメリカ生まれのキリスト教、「リバイバル」に代表されるような「熱狂」的なキリスト教が、とても合うものだったようである。

 その証拠に、「リバイバル」運動という「熱狂」的な運動が全国規模で広がった地域は、極東アジアの中では「韓国だけ」であったようなのだ。

 アメリカ人のジェームス・スカスゲール牧師(韓国名ギイル、一八六三〜一九三七)はキリスト教を土着宗教に昇華させるために努力した。彼は一八八八年に韓国に来て、約四〇年間にわたり人々に福音を伝え、その経験の中で韓民族聖霊に感動しやすいという点を指摘した。韓国では聖霊運動的な宣教をすればすぐに一〇〇〇人以上集まるが、日本では同様の宣教をしても一〇人ほどしか集まらず、中国では四〇年間宣教しても一〇人も集まらないだろうと言っている。
 キリスト教は韓国の風土に適しており、韓国の人々にはキリスト教を受け入れる素地があった。これは韓国のキリスト教の特徴にもつながっている。
「第5章 シャーマニズムキリスト教の調和」(p.175)

 このように、アメリカ生まれの「熱狂」的なキリスト教は、韓国の風土に非常に適していたようである。

 つまり、韓国の人々は、「頭」に残るものよりも、「ハート」に響くものの方を好む、ということなのだろう。
 そして、それはいかに「ハート」に響くかが判断の基準となるということである。

 このような特質を持つ韓国のキリスト教会であるが、本書にはその礼拝の様子が次のように描かれている。

私が一九九三年に参加した長老派に属するある教会の祈禱会では次のような光景が見られた。
 信者の「通声祈禱」、手をたたきながら、身体を動かしながらの讃美歌合唱(太鼓やトランペットが参加する)、大きな声で「アーメン」と言い牧師の説教に同意を唱える。献金を入れた封筒に名前を書いて入れると、牧師は会衆の前で献金者の名前を読みあげる(これは信者にとって特別な意味がある)。牧師は癒しの祈禱を行い(その際、牧師は信者の頭や肩に手を置いて祈る)、儀礼的に悪魔を追い払う。
「終章 シャーマニズムからキリスト教へ」(p.202)

 日本の教会では考えられないことであるが、韓国の教会では、こんなにも「激しく」かつ「騒々しい」礼拝が行われているみたいなのである。
 やはり、韓国の教会では、「頭」に残るものよりも、「ハート」に響くものの方が好まれているようである。

 そして、このような韓国の「熱狂」的な礼拝の様子は、アメリカの「リバイバル」の時の礼拝の様子と酷似しているように思われた。
 その時のアメリカの礼拝の様子が、森本あんり氏の著した『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』では次のように描かれていた。

会の礼拝や祈禱会は大盛況で、集まった人は救いの喚起や罪の悲嘆にむせび泣く。ひきつけや痙攣などの身体的症状を起こす人もある。とにかく、町をあげての大騒ぎである。恍惚状態に陥ったまま、一日まったく身体を動かさない人もあった。人びとは集会が果てた後も祈り、讃美歌を歌い、夜を徹して語り合う。家路に着いた人も、大声で泣きながら通りを歩いていった。当時人びとが交わす挨拶の言葉は、「もう経験されましたか」だったという。こうした状況が数ヶ月ほど続く。
 要するに集団ヒステリーである。この現象は伝染力が強い。一つの町から隣の町へと次々に広がってゆき、地域一帯がしばらくの間騒然となる。
反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』森本あんり著 新潮新書(p.58)

 日本人の感覚からしてみれば、ちょっと引いてしまうような光景である。

 とは言え、しかしながら、確かに韓国人も、またアメリカ人も、喜怒哀楽といった「感情表現」がとても豊かな(激しい?)人々のように思われる。
 それとは逆に、われわれ日本人はそれを表現するのが苦手だ。

 であればこそ、このような「熱狂」的な信仰体系は、日本の風土には適していないのであり、お隣の国「韓国」にこそ適していたのであろう。

 そして、こうした「熱狂」的な信仰体系を、われわれ日本人は受け付けないとしても、それを受け入れている「相手」を理解しようとすることは、とても大切なことだと思う。

 この「熱狂」を好む人々は反知性主義というものに分類されると思うのだが、この「反知性主義」にしたところで、ちゃ〜んと理解するにはそれなりに手間がかかる、とっても深〜い現象なのである。
 詳しくは、ホフスタッターの『アメリカの反知性主義』か、森本あんり氏の『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』を読んでくだされ。

 で、その森本あんり氏の『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』には、次ような記述がある。ちょっと長いが引用してみよう。

それまで人びとが聞いてきた説教といえば、大学出のインテリ先生が、二時間にわたって滔々と語り続ける難解な教理の陳述である。それに比べて、リバイバリストの説教は、言葉も平明でわかりやすく、大胆な身振り手振りを使って、身近な話題から巧みに語り出す。既成教会の牧師たちがいくら警告を発しても、信徒たちがどうしてもそちらになびいてしまうのも無理はない。溌剌とした語り口に惹かれて行く信徒たちを見て、街の権威だったはずの牧師たちは、深刻な引け目を感じたことだろう。

 ホフスタッターはこれを「あたかも、舞台のコーラスダンサーの最前列の若い娘に心を奪われた亭主を見ている古女房」にたとえて説明した。見事にぴたりとくるたとえ方である。そして、このやや低俗とも思われるたとえ方自体が、アメリカの底流をなす反知性主義を適切に表現していると言ってよい。われわれがゆっくりとその歴史を追いかけている反知性主義の原点とは、要するにひとことで言うと、このぴちぴちとしたコーラスダンサーが振りまく魅力でありこの若い娘たちに見とれている亭主の心持ちなのである。難しい話はさておき、ともかく思わず見とれてしまう、そのうっとり感。古女房の冷たい視線を脇に感じながらも、それで何が悪い、という一種の開き直り感、これである。
反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』森本あんり著 新潮新書(p.83−84)

 上記のような叙述を読んでみると、私たちにだって「反知性主義」と呼ばれる人びとの心情がよく理解できるのではなかろうか。

 そして、繰り返しになるが、「反知性主義」の人びとには、「頭」に残る教養的な説教よりも、「ハート」に響く熱狂的な説教の方が好まれるのである。
 だから、彼ら「ハート」を重んじる人びとに何かを伝えようとするときは、「情報」云々よりも「感情」を全面に出した方が、彼らも受け入れやすいだろうと思う。
 要は、相手の好みに合わせる、ということである。

 そして、これは、同じことが「韓国キリスト教」にも言えるらしい。
 というのも、「韓国キリスト教」は、世界に向けての宣教に熱心で、日本人への伝道にも力を入れているのであるが、そのやり方が「熱狂」的な韓国式なので、まったくうまくいっていないというのである。

韓国のキリスト教会は日本人への伝道に力を入れているが、日本の文化や人々の感情を無視した説教をする牧師も多い。これは西洋の宣教師たちが伝道の傍ら、その土地の風習について研究するのとは対照的であり、彼らに大いに学ぶべきであろう。日本では感情的な説教を避け、人々の理解が得られるようにしなければならない。
「第5章 シャーマニズムキリスト教の調和」(p.177)

 日本のキリスト信者たちは「頭」に残る教養的な説教の方を好むようなので、韓国式の「ハート」に響く熱狂的な説教ではうまくいかないようなのである。

 そして、こうしたボタンの掛け違えは、日本と韓国の一般的な間にもあるのではなかろうか。
 日本と韓国の間が何かあるごとにギスギスするのも、日本は「頭」の方を好むが、韓国は「ハート」の方を好むといった、「好みの違い」に関わってくるもののように思われる。
 そんなことを本書を読みながら感じたのである。

 以上、おしまい。