「宗教と過激思想 現代の信仰と社会に何が起きているか」藤原聖子著 を買った
【ザックリとしたまとめ】本書は、イスラム教・キリスト教の過激派だけではなく、神道や仏教などにおける過激派も扱っている。取り上げる過激派の幅が広いだけでなく、本書は過激思想のルーツにまで遡って解説することによって、宗教過激派に関する理解を深めようとしている。
「宗教と過激思想 現代の信仰と社会に何が起きているか」藤原聖子著 中公新書2642 2021年5月25日初版本書の特徴
宗教はなぜ「過激化」するのか。
本書はその問いに、誠実に的確に答えてくれる。
そんな本書が取り扱っているのは、「イスラム国」に代表されるような「イスラム教」の過激派だけではない。
「中絶反対」を訴え、病院を襲撃するような「キリスト教」の過激派も取り上げている。
さらに本書は、上記のような「一神教」の過激派だけではなく、神道やヒンドゥー教などの「多神教」の過激派、はたまた「血盟団」という戦前日本に爆誕した「仏教」の過激派までをも取り上げ、「宗教過激派」というものを「幅広く」取り扱っているのだ。
そして、本書の特徴は「幅広さ」だけではない。
本書のもう一つの特徴は、こうした過激な思想の「ルーツ」にまで遡っている点にある。
本書は、イスラム過激思想でいえば《サイイド・クトゥプ》、キリスト教過激思想でいえば《ジョン・ブラウン》といった人たちの人物像にまで迫っていくのである。
このように、本書は、あらゆる宗教を見渡すという「広い」視野と同時に、「ルーツ」にまで遡るという「深い」視野をもあわせ持っているのだ。
そして、こうした二つの視野があることによって、本書は、宗教が「過激化」していく過程を「わかりやすく」解説することに成功しているように思われる。
本書の中で特に印象に残ったところ
本書を読んでいて、「そうなのか!」と意表をつかれたのと同時にストンと腑に落ちたのが、宗教過激派は「世直し」運動なのだ、という指摘であった。
現代の宗教的過激思想は、ほとんどの場合(その提唱者から見てことだが)社会の不公平さを批判し、公正な社会を求めていることだ。本書で取り上げた思想は全てこの特徴を持っていた。つまり、過激思想の目標は「世直し」なのである(繰り返すが、だから過激思想は良いものなのだというのが本書のいいたいことではない)。
「第5章 過激派と異端はどう違うか」(p.191)
宗教過激派は、彼らの価値基準に従って「世直し」をしようとしている人たち、つまり、「腐敗している」(と彼らが考える)この世界を、彼らが思い描いた「理想」の世界に変えてやろうとしている人たちなのである。
さらに、宗教過激派のもう一つの特徴は「ピュアさ」にあることも、本書では指摘されている。
信仰の純粋性にこだわるため、「プロテスタント的」と形容されることがあるが(大谷二〇一九、五五)、そのような特徴はキリスト教からの影響によるものというよりも、多くの宗教が近代化の過程で帯びがちなものである。
「第3章 善悪二元論ではないのに」(p.115)
このあたりを読んで私が感じたのは、「宗教過激派」の人々は「大人は腐敗している!」と言って、自分を取り巻く世界に精いっぱい反抗してみせる「青少年」に似ている、ということである。
ドミニオン神学とは
また、本書では、アメリカの過激なキリスト教を扱っている章において、「ドミニオン神学」というものにも触れられており、この辺りもまた、知識の幅が広がるようで面白いところであった。
ドミニオン神学とは一九七〇年代に徐々に台頭した思想で、聖書に基づく政教一致の社会を築くことを目ざす。ドミニオンの語は聖書・創世記(1:28)の「神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配(dominion)せよ。」に由来する。
「第2章 「弱き者のため」のエネルギーはどこから」(p.87)
この「ドミニオン神学」、名前的にはカッコイイが、その内実はとても厄介なものだ。
というのも、この神学の信奉者たちは、現代アメリカの「腐敗」を嘆き、それを彼らの「理想」のアメリカ、ピューリタンの伝統に則って生活していた頃の「古き良きアメリカ」へと築き直すことを目的としているからである。
以前当ブログでルネ・ジラールの『ドストエフスキー 二重性から単一性へ』を取り扱ったことがあるが、「宗教過激派」の人々は、ジラール言うところの《ロマンティーク》に分類される人々なのではないかと思われた。
つまりは、「自尊心」が強い人々だということだ。
その記事でも書いたことだが、「自尊心」の強い人々は、自分の、あるいは自分が心酔する指導者の描き出す「理想」を《絶対視》する傾向にある。
けれども、どんなに素晴らしい「理想」であっても、人間の作り出したものを《絶対視》することは、「偶像崇拝」と呼べるものなのである。
血盟団と「日本暗殺秘録」
本書では、「血盟団」のことも載せられており、血盟団と聞いて私は東映映画の『日本暗殺秘録』のことを思い出した。
この映画は、みんなにおすすめしたい面白い映画なのだ。
最初の方は、若山富三郎ら豪華キャストによる、日本政治史における「暗殺」を再現した映像の寄せ集めなのだが(これも十二分に見応えがある)、三分の二ぐらいの尺で「血盟団事件」のことを扱っている。
でもって、この「血盟団」パートを見た私は「宗教ってこわ〜い」と感じたのである。
しかもその頃は、カトリック教会に入るための要理教育を受けていた時期だったので、「やっぱ、宗教はキケン! やっぱ、入るのやめようかなぁ」という想いに煩悶したものだった。
そのくらいに、この映画は宗教(過激思想)のヤバさが描かれているように感じられたのだ。
けれども、私的には「血盟団の奴ら、ヤバイ」だったが、製作者サイドはそうではないらしく、「血盟団」の青年らを肯定的に捉えていたようなのである。
制作年が1969年であり、ちょうど「70年安保」の時期と重なっていたこともあり、青年らによる「世直し」運動は歓迎されていたのであろうが。
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