ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「回勅 ラウダート・シ ともに暮らす家を大切に」教皇フランシスコ著 を買った。

【ザックリとしたまとめ】昨今話題の「SDGs」に関連した回勅。本回勅の特徴は、持続可能な社会を達成するには、「意識改革」だけではなく、「人間性改革」も必要だとしている点にある。さらに本回勅は近代社会の(行き過ぎた)「消費主義」も批判している。また持続可能な社会のためには、他者への「思いやり」も欠かせないともしている。

「回勅 ラウダート・シ ともに暮らす家を大切に」教皇フランシスコ著 カトリック中央協議会 2016年8月10日初版 LITTER ENCYCLICAE LAUDATO SI’ 2015.5.24


 この回勅は、昨今メディアで騒がれている「持続可能な開発目標(SDGs)」に関連した回勅である。

 本書の大まかな内容は、国連の「SDGs」のページに書かれてある内容と類似する。
 つまりは「貧困に終止符を打ち、地球を保護し、すべての人が平和と豊かさを享受できるようにすることを目指しましょう」ということだ。

 けれども、ブログ主としては「SDGs」と聞くと、なんか身構えてしまうものがある。
 というのも、「SDGs」を声高に叫ぶ、各種メディアの「浮かれ騒ぎ」が苦手だからだ。
 いま「身構えてしまう」と言ったが、「シラけてしまう」と言った方が的確なのかもしれない。

 そんでもって、「SDGs」を叫ぶメディアの方々が目標としているのは、主に庶民の「意識改革」であろう。
 環境に対する「気づき」を、オロカな庶民らに起こさせる。
 そういった「意識」の改革である。

 確かに、こういったことは、あちこちにアンテナ張りまくりの「意識高い系」であるメディアの方々にとっては、それはそれは得意分野となるのであろう。

 でもって、本回勅の内容は、こうした各種メディアによる「SDGs」騒ぎと大体において合致している。
 けれども、当然ながら、この「お祭り騒ぎ」とは異なる点もあるのだ。

 本回勅の、メディアと異なる点。
 それは「意識」の改革ばかりでなく、「人間性」の改革も必要だとしている点である。

人間性の刷新なしに、自然とのかかわりを刷新することは不可能です。適切な人間論なしのエコロジーなどありえません。(118)
「第三章 生態学的危機の人間的根源」(p.106)

 そして、本回勅は、どちらかといえば「人間性改革」の方をより重くみているように感じられる(というより「意識改革」は出発点に過ぎないと見ているのかも?)。

 そして、この「人間性」の改革の方は、メディアの方々も、なかなかに手こずるものなのではなかろうか。
 というのも、メディアの影響力を存分に行使して、一大ムーブメントを起こせば、「SDGs」という流行を作り上げて、それを広げれば、それで万事OK的なものではないからである。

 では、「人間性」の改革とは何を意味するのであろうか。
 それはまず、「自己中心的」な生き方をやめましょう、ということである。

人は、自己中心的にまた自己完結的になるとき、貪欲さを募らせます。心が空虚であればあるほど、購買と所有と消費の対象を必要とします。(204)
「第六章 エコロジカルな教育とエコロジカルな霊性」(p.175)

 そもそも本回勅は、「消費主義」を批判しているのだ。
 けれども、メディアが得意とする、流行を起こすやり方では、この「消費主義」から脱することは難しいのではなかろうか。
 昨今のお祭り騒ぎは、「消費主義」を改めるどころか、新たな消費の促進を後押ししているだけのように見えてしまう。

 さらに、「人間性」の改革は、たとえ自分とは直接の関わりのない人であったとしても、他人に「思いやり」を持ちましょう、ということも意味するのだ。

わたしたちは、いつも、自分自身から出て他者へと向かうことができる存在です。そうしなければ、それぞれの価値をもつ他の被造物を認めることはできず、他者のためになるさまざまなことへの配慮には無関心となり、他者の苦しみやわたしたちの環境の悪化を防ぐための自制をし損ねてしまいます。閉塞性と自己中心性を打ち破る、自己を超え出るという基本姿勢が、他者と環境に対するどのような配慮をも可能たらしめる土台です。(208)
「第六章 エコロジカルな教育とエコロジカルな霊性」(p.177)

 つまり、人間性改革」は、「慈悲深く」なりましょう、ということも意味するのである。

 そしてこれは、他者への「気づき」によって可能なもの、つまりメディアお得意の「意識改革」でも達成可能なもののように思われる。

 けれども、「慈悲深く」なるのは、各種メディアで見受けれられるような「お祭り騒ぎ」のムーブメントでは達成できない、とブログ主は思ってしまうのである。

 確かに、ハデハデな騒ぎは、「気づき」を促す「意識改革」の方には有効だと思う。

 けれども、ブログ主的には、「慈悲深さ」を深めていくという「人間性改革」には、ムーブメントよりも、「静けさ」と「落ち着き」の方が必要なのだと思えるのである。

 話しているのは、心のあり方についてです。それは、落ち着いた注意深さをもって生活しようとする姿勢、展開を予想したりせずに全身全霊をもって相手と向き合おうとする姿勢、懸命に生きるように神からいただいた贈りものとして一瞬一瞬を受け止める姿勢です。イエスは、野の百合と空の鳥をじっと見つめなさいと招かれたとき、あるいは、金持ちの青年をご覧になり彼の満たされなさを見抜かれ「彼を見つめ、いつくし」(マルコ10・21)まれたとき、わたしたちにこうした姿勢を教えてくださったのです。(226
「第六章 エコロジカルな教育とエコロジカルな霊性」(p.192)

 ブログ主も、「SDGs」に協力できることは可能な限りするつもりだが、どうにもこうにも、昨今のメディアによるこの騒ぎは苦手なのである。

おしまい。