ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「使徒的勧告 愛のよろこび」教皇フランシスコ著 を買った

【ザックリとしたまとめ】現代の「家庭」を取り扱ったカトリック教会の勧告。中でも特に印象的だったのが、「離婚」や「再婚」をした信者たちにも、教会は門戸を開き、彼らを受け入れなければならないという、本勧告の指針であった。

使徒的勧告 愛のよろこび」教皇フランシスコ著 カトリック中央協議会 2017年8月30日初版 ADHORTATIO APOSTOLICA POST-SYNODALIS “AMORIS LÆTTIA”2016.3.19

 今回取り上げるのは、フランシスコ教皇の書いた「使徒的勧告 愛のよろこび」である。

 本勧告は、結婚や子育て、あるいは離婚や再婚といった、現代社会における「家庭」の諸問題を取り扱った文書だ。

 今回は、この勧告の中から、ブログ主の印象に残った所を紹介していこうと思う。

広告の「家族像」についての注意点

 本勧告は言うのである、テレビなどの広告で描かれている「家族像」、その「愛」の姿には気をつけなければならない、と。

 というのも、広告の「家族像」には、誰もが夢見る「完全なる愛」の姿が描かれているものだが、この幻想に取り込まれてしまうと、現実の「家族」、「不完全な愛」しか示せない私たちの「家族」が、価値のないものに見えてしまうからである。

チリの司教団が思い起こさせたように、「欺瞞に満ち消費主義的な広告で提唱されるような、完璧な家庭などありません。そうしたものには時の経過がなく、病も、痛みも、死もありません。・・・・・・消費主義の広告が提示するのは、家庭の父親や母親が、日々直面している現実とはまったく関係のない絵空事です」。限界や課題や不完全さを現実的に受け入れ、一致して成長するようにという呼びかけに耳を傾け、愛を成熟させ、何が起ころうとも、確かな一致を培うほうがずっと健全です。(135)
「第四章 結婚における愛」(p.119)

 現実の「家族」は、その「不完全な愛」をゆっくり時間をかけて熟成してゆくものなのである。
 「完璧な家庭」という広告の幻想に取り込まれ、「現実の家庭」を見下してしまってはいけないのだ。

だからこそ夫婦は、互いに自分は完璧な相手だなどと思い上がることはできません。未熟で、成長するよう求められている、途上にいる者なのです。幻想を脇に置いて、あるがままを受け入れる必要があります。配偶者に向けられる目がいつも批判的であれば、それは結婚を、忍耐、理解、我慢、寛容をもって共同で築いていくプロジェクトだとは考えていない証拠です。そうなると、愛が徐々に、功績や各自の権利をチェックすることや、抗議、対立、自己弁護からくる、尋問者の仮借のない目に取って代わられてしまいます。こうして、両者の成長のため、一致の成長のために、互いに支え合えなくなります。218
「第六章 若干の司牧上の展望」(p.187−188)

家族間の「対話」における注意点

 夫婦間、家族間に「対話」は欠かせない。
 時には、「深刻な相談」を受けることもあるだろう。

 が、そこにも「気をつけなければならない点」があるという。

辛抱強く、注意深く、相手がいいたいことのすべてをいい終わるまで耳を傾けることです。それには、ふさわしい時になるまで話し始めない自制が必要とされます。意見や忠告をいおうとするよりも、相手が話す必要のあることをすべて確実に聞かなければなりません。このことは、心と頭の中で騒がずに、内的な沈黙を作ることを意味しています。はやる気持ちをいっさい捨て、自分の要求や焦りを脇に置いて、余裕を作ることです。多くの場合、夫婦の一方が必要としているのは、抱えている問題の解決ではなく、聞いてもらうことなのです。自分の苦悩、失望、恐れ、怒り、希望、夢を分かってもらえたと思えればいいのです。(137)
「第四章 結婚における愛」(p.120)

 ここにあるように「(相手が必要としているのは)抱えている問題の解決ではなく、聞いてもらうこと」というのは、忘れてはならない大切なことだと思う。

 その時に必要なのは、相手に「寄り添うこと」なのだろう。
 そしてそれは「どんなことがあっても、あなたと共にいる」ということを態度で示すことなのだろう。

離婚家庭について

 カトリック教会は、昔からずっと「離婚」は「神の意志に反する」ものとしているのだが、本勧告は、それでも「教会は多くの子らの弱さにも気づいてます」ということも述べている。

 そして、カトリック教会は、「離婚」や「再婚」をした人びとに対しても「居場所」を提供しなければならない、というのである。

彼らが自分は破門されたのだと感じないようにすべきで、むしろ、教会の生きた成員として生き、成熟できると感じられ、教会は、いつも自分を迎えてくれ、愛情をもって受け止め、いのちと福音の道を歩むよう励ましてくれる母のようだと、思えるようにしなければなりません。(299)
「第八章 弱さに寄り添い、見極め、受け入れる」(p.256)

 私たち信徒も、彼らを受け入れ、彼らと共に生きていくべきなのだ。

 ここでも、先の家族のように、「寄り添うこと」が大切なのである。
 彼らの苦しみを理解しようとし、彼らの支えの一助になろうとしなければならないのだ。

徹底して混乱を避けるべく、厳格な司牧を好む人がいることをわたしは理解しています。エスが教会に望んでおられるのは、聖霊が弱さの中に蒔く善に心を向けることだと心から信じています。自らの公平な教えをはっきり示すそのときでも、「道の泥で自らを汚すとしても、自分ができる善をあきらめはしない」母であることを望んでいるのです。福音の完全な理想と教会の教えを信者に提示する司牧者は、それだけでなく、弱者への思いやりという論理をもって、糾弾やあまりに厳しく性急な判断を避けるよう、信者を支えなければなりません。(308)
「第八章 弱さに寄り添い、見極め、受け入れる」(p.266)

 混乱を恐れるあまり、離婚した人たちを「思いやること」、彼らに「寄り添うこと」を蔑ろにしてしまってはいけないのだ。


以上、おしまい。

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