ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「永遠に女性的なるもの テイヤール・ド・シャルダンの一詩篇の研究」アンリ・ド・リュバク著 はこんな本だった

【ザックリとしたまとめ】おとめマリアに代表されるような「永遠に女性的なるもの」の力は、互いに拒絶しがちな「信仰」と「理性」を結び合わせる力となる。

「永遠に女性的なるもの テイヤール・ド・シャルダンの一詩篇の研究」アンリ・ド・リュバク著 山崎庸一郎訳 法政大学出版局(叢書ウニベルシタス) 1980年9月25日初版

はじめに

 タイトルの「永遠に女性的なるもの」
 これは、「テイヤール・ド・シャルダン」というイエズス会の神父が書いた「詩」のタイトルなのである。

 本書は二部構成になっていて、第一部は、この詩を下地にした「テイヤール的理性論」となっている。
 第二部は、「テイヤールと現代」と題されており、当時カトリック教会から批判されることの多かったテイヤール神父の「弁護論」となっている。

 今回は、第一部の内容についての感想である。

グロータース神父

 以前、当ブログで取り上げたこともあるグロータース神父もこのテイヤールの信奉者の一人であった。
 そのグロータース神父は、著書の中でテイヤールのことを次のように述べている。

 ところでテイヤールはどんな精神的活動も、そして精神自体も、神の存在なくしてはありえないと考えていた。だから学問における精神の進歩、すなわち精神の幅と領域を広げることは、神の国を広げることと同じなのである。そしてすべてのものが進化によって神に向かっている。彼の有名なモットーに従えば、「上に向かって昇るものはすべて収斂する」したがって学者生活と司祭生活とが両立するかどうかということではなくて、むしろ学問のレベルが高くなればなるほど、神に向かっている度合いもそれだけ高くなる。真理とは神の別名である。
 こうしたテイヤールの考え方が、どんなに新しい方向づけを私にもたらしてくれたか、またそれが精神的にも宗教的にも、どんなに私を解放してくれたか、どれだけ繰り返し言っても言い過ぎることはない。
「それでもやっぱり日本人になりたい」W・A・グロータース著(p.88)

 このように、グロータースやテイヤールが生きていた当時は、「信仰」と「理性」が《分裂》していた時代だったようだ。
 カトリック教会は「信仰」の肩を持ち、世俗の社会は「理性」の側に立ち、互いが互いを見下しあい、拒絶しあっていたみたい。

 そんな時代背景の中にありながら、テイヤールって人は、「信仰」と「理性」の間のケンカを止めさせ、仲直りさせようとしたのだ。

 で、このテイヤールの思想は、以前に取り上げたヨハネ・パウロ2世の回勅『信仰と理性』に繋がっていると思う。
 というのも、『信仰と理性』には、「信仰と理性は、人間の霊魂が真理の観想へと飛翔していく両翼のようなものです。(p.3)」という記述があり、「信仰」と「理性」の両方を重視しているからだ。

 

信仰と理性

 以前にまとめた『信仰と理性』の内容をさらに短くまとめると、次のようになる。

 人間の認識には、哲学に代表されるような「理性からなる認識」と、「信仰(信頼)からなる認識」の二種類がある。

 そして、自然科学などに代表される「理性からなる認識」によっても「神」という真理に至ることができる。
 けれども、「人間の不従順(原罪)」によって、人間の認識力は弱くなったので、わたしたちが真理へ至るためには、「理性からなる認識」だけでは不十分で、「信仰(信頼)からなる認識」をも必要とする (ちなみに「信仰(信頼)からなる認識」の《優位性》も語られている)。
 つまり、真理へは、「理性からなる認識」と「信仰(信頼)からなる認識」の両翼によって至ることになる。

 けれども、中世の終わり頃から、「信仰」と「理性」の《分裂》が始まり出し、しだいに互いが互いを拒絶し合うようになり、やげてそれぞれが自分の殻に閉じこもるようになった。

 まぁざっと、こんな感じである(下の方に以前のまとめのリンクも貼っておくから、よかったら見ていってね)。

永遠に女性的なるもの

 わたしたちは、世の不思議に引き寄せられる性質を持っている。
 つまり、人間ってのは「これは何だろう??」という疑問を対象物に感じたら、それを解明したくなる生き物なのだ。

 テイヤールは、こうした引き込み力を「女性的引力」と表現している。
 で、この「女性的引力」は、世を発展繁栄させてもきたが、同時に混迷退廃にも至らしめてもきた。

 だが、混迷退廃に至らしめる結果となったのは、別段「女性的引力」の所為ではない。
 そうではなく、引き寄せられ魅惑された人間が、自らの欲望のままに、対象物を自分の意のままにしようとしたからだと言えよう。

「おまえを惹きつける被造物を相手におまえが追求しなければならない真の合一は、直接に彼らに向かうことによって実現されるのではなく、彼らを通じて探し求められる神の方へ、彼らと共に収斂することによって実現されるのだ。(……)おお、わが魂よ、貞潔であれ。」
「第3章 永遠に女性的なるものの続編」(p.72)

 このように、テイヤール曰く、わたしたちが引き寄せられたなら、その対象物(被造物)を自分の意のままに扱おうとするのはダメで、その対象物(被造物)を通じて神の方へ向かわなければならないのだ、としている。

 そして、対象物(被造物)を通じて神に向かうことを可能にしたものこそ、「イエス・キリスト」なのである。
 というのも、キリストによって、「女性的引力」は《貞潔》と結びあわされたからである。
 その代表例が、タイトルの「永遠に女性的なるもの」、つまり「処女マリア」である。

処女性によって神は引き寄せられた。処女性から神は生まれた。
「第1章 準備」(p.23)

 貞潔(処女性)が「女性的引力」と結び合わされることによって、神もまた引き寄せられ、そして天にましました神が地に降誕されることとなった。

 つまり、世の対象物(被造物)の中に、神の姿を見出すことが可能となったのである。
 だから、対象物(被造物)は、もはや自らの欲望のままに、好き勝手にしてもいい存在ではなくなり、神に向かうための道として認識できるようになったのである。

 女性から放散する優しい憐れみ、聖性の魅力ーーあまりにも自然であるために、おまえたちはそれらを女性のそばにしか探し求めに行かないが、しかし極めて謎めいているために、それらの源泉がどこにあるのかを言い当てることはできない。ーーそこに感じ取られ、おまえたちを燃え上がらせるのは、神の臨在なのだ。
 共通の引力の場として、神と地とのあいだに置かれたわたしは、一方を他方へと、情熱的にきたらしめる。
 ……わたしのうちで、キリストの産出と充溢が成就される出会いが行われるときまで、世々を経て。
 わたしは教会であり、イエズスの花嫁である。
 わたしは、全人類の母、処女マリアである。
「付録 永遠に女性的なるもの」(p.333)

 以上のことから、冒頭でグロータース神父が述べていたように、「学問のレベルが高くなればなるほど、神に向かっている度合いもそれだけ高くなる」と捉えることが可能になり、テイヤールの思想は、当時見下されがちだった「理性」の復権に寄与したってことが言えるのだ。

最後に

 最近、身辺でゴタゴタが続き、ブログを書く時間がとれなかった。
 これからも、この状態は続くと思われる。
 だから、ただでさえ一ヶ月に一度の更新というテンポの遅い当ブログが、三ヶ月に一度、半年に一度くらいの更新間隔になるかもしれない。
 けれども、ブログ自体は止める気はないので、気長に待っていてください!


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