ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「大衆運動 〈新訳版〉」エリック・ホッファー著 はこんな本だった

【ざっくりとしたマトメ】狂信者は、不安定な存在であり、それ故に何か支えになるものを求めて生きている。そして、たまたま見つけた支えに情熱的にしがみつくこと(甘え)によって、心を安定させる。また狂信者は、真理や正義とかいったものにもしがみついて、それらと一体化する。そして、真理と一体化した彼らは自分たちの集団に属さないものを悪とみなすようになる。

「大衆運動 〈新訳版〉」エリック・ホッファー著 中山元訳 紀伊国屋書店 2022年2月17日初版 [Eric Hoffer THE TRUE BELIEVER Thoughts on the Nature of Mass Movements]

 昨今、ワイドショーなどで、「カルト」とかゆ〜話題がカマビスしい。

 本書「大衆運動」は、そのあたりのコトを取り扱った本だ。
 これを読めば、現代人が「狂信者」になってしまう、その心理状況が理解できよう。

 で、今回は、そんな本書の内容に、土居健郎氏が提唱する「甘え」の概念などを織り交ぜた、ブログ主なりのマトメである。

 本書では、「狂信者」とは、次のようなものだってことが述べられている。

 狂信者はいつでも不完全で不安定な存在である。こうした人は自己を拒絶しているために、自分の力では自己への信頼を生み出すことができない。たまたま見つけた何か支えになるものに情熱的にしがみつくことによって、自信のようなものを生み出すことができるだけである。このような情熱的な愛着が、狂信的な人々の盲目的な献身と宗教性の本質なのであり、すべての徳と力の源泉はこの情熱的な愛着のうちにみいだされるのである。
「第3部 統一行動と自己犠牲」(p.141)

 上記引用にある「情熱的な愛着」ってのは、「依存」って言い換えてもいいと思うのだ。
 よりわかりやすく言えば、土居健郎》氏言うところの「甘え」であろうか。

 そして、土居氏によれば、「甘え」の原型は、乳児と母親との「密着」にあるのだそうな。
 つまり、「甘え」ってゆ〜ものは、他者に依存して(たまたま見つけた何か支えになるものに情熱的にしがみついて)、自己と他者との深い「密着」を目論む心性であると言えよう。

この意味での甘えの心理は、人間存在に本来つきものの分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚しようとすることであると定義することができるのである。
『「甘え」の構造(増補普及版)』土居健郎著(p.118)

 で、本記事のキモに据えたいのが、この「密着」と「分離」とゆ〜二つの概念である。

 つまり、この「密着」の方、いわゆる「甘え」の心性の方が、「カルト」の信仰感に当てはまるんじゃないかってなことを言いたいのだ。

 「密着」と「分離」のどちらを心性の基礎とするかによって、「信仰」ってものの違いは生まれてくるのじゃないか、ってなことを本記事で表わしたいのね。

 一般的に、西欧的な「父性神」に対する信仰ってのは、自己と他者との「分離」を基礎としている。
 つまり、崇拝する相手(例えばイエス・キリスト)は、母親のように「密着」するような存在ではなく、父親のように自己とは異なる「他者」として「分離」した、自己から離れた存在なのである。

 一方で、「カルト」っぽい人たちの「信仰」ってのは、「分離」ではなく「密着」の方を基礎にしているようである。
 つまり、「狂信者」にとって、崇拝する相手(例えば教祖様)とは、乳児における母親のような存在なのであり、それはより深く「密着」するべき存在であるのだ。

 ……とは言え、土居氏が『「甘え」の構造』の中で述べているように、この「甘え」ってのは悪い心性なのではない。
 そうではなく、逆に大切な心性であり、ちゃんと満たされるべきものなのである。

 けれども、近代社会においては、「家庭崩壊」が代表するように、旧来型の「甘え」の世界は崩壊しつつある。
 「依存」の欲求、「甘え」の欲求は、人の心性に残っているのに、それを満たす場が失われつつあるのだ。

 こうした状況の中で、「カルト」ってのは、この失われた「甘え」の場を提供する運動なのだと言えよう。
 つまりは、「カルト」こそが、我々現代人に、新しい「密着」の場を、「甘え」の代替の場を与えてくれる存在なのである。

 そして、この新しい「密着」においては、宗教も、イデオロギーも関係ない。
 それは「たまたま見つけた何か支えになるもの」であればいいのであり、「甘え」に飢えた現代人が、それに情熱的にしがみつけさえしたらそれで良いのだ。
 そして、こうしたものこそが、本書のタイトルにある「大衆運動」となる。

 本書でも、「狂信」ってゆ〜ものは、宗教、イデオロギーの区別なく、本質に同じものだってことが言われている。

狂信的なキリスト教徒たち、狂信的なイスラーム教徒たち、狂信的な民族主義者たち、狂信的な共産主義者たち、そして狂信的なナチ党員たちのあいだには明らかな違いがみられるが、これらの人々を動かしている狂信的な考えは、同じものとみなして同じものとして扱うことができる。これらの狂信的な人々を、運動の拡大と世界支配に駆り立てる力もまた、どれも同じものとみなすことができるし、同じものとして扱うことができる。
「序文」(p.9)

 繰り返しになるが、何らかの運動の「狂信者」たちは、何か自分が情熱的にしがみつけるものを、その中に溶け込んで、「甘え」られるものを、母親の代替を切に求めているのだと言えよう。

 そして、「大衆運動」の支持者たちは、「甘え」ている時、母親の代替と「密着」している時に、「解放」と「自由」を感じるという。

 興隆しつつある大衆運動の支持者たちが、運動の教えと命令に絶対的に服従しなければならないという雰囲気のうちでも、強い解放感を味わっているのはたしかである。この解放感は、自分で担うことのできない個人的な実存の重荷から、そして恐怖と絶望から逃れることによって生み出されるものである。運動の支持者たちはこの解放感によって、自由になったとか救われたとか感じる。
「第2部 運動に参加する可能性のある人々」(p.58)

 けれども、「自由」ってものは、「依存」してる時にではなく、「自立」した時にこそ感じられるもののはずである。

 しかしながら、「甘え」に飢えた現代人は、「甘え」の世界を、つまり「自立」とは程遠いものを「自由」と履き違えてしまうようなのだ。

 もっとも声高に自由を求める人々は、実際には自由が実現された社会においてもっとも幸福になる可能性の低い人々なのである。
「第2部 運動に参加する可能性のある人々」(p.60)

 このような「狂信者」であっても、彼らがただ「密着」しているだけなら大して問題はないのだが、厄介なのは彼らが「真理」とか「正義」とかいったものと「密着」し、その中に溶け込んでしまうということだ。

 つまり、彼らは「真理」と一体化することによって、自分たちの世界以外の人々を「悪」として裁くことになるのである。

この信仰の力によって人々は、自分が唯一無二の真理を所有していて、正義の立場に立っていることを疑わないですむ。そして神であるか運命であるか歴史の法則であるかを問わず、自分は何らかの神秘的な力によって支えられているのだと感じるのであり、悪の化身である敵を粉砕しなければならないと信じることができる。さらに自己否定と義務への献身において、高揚感を感じることもできる。
「第3部 統一行動と自己犠牲」(p.202)

 つまりは、「密着」をむねとする「カルト」の人々にとって、その崇拝する相手が体現している「真理」とか「正義」とかいったものは、母親の代替であり、それは「依存」し、溶け込み、一体化すべき存在なのである。

 一方で、「分離」を信仰の基礎に据えた人々にとって、神の「真理」とか「正義」とかいったものは、父親のようなものであり、それは自己から離れた、自己とは別個の存在であり、決して一体化することはできない存在なのである。

 このように、色々と問題を抱えている「カルト」という問題であるが、これはその発端となる「甘え」を排除することによっては解決しないであろう。

 わたしたちは狂信的な信仰や偏見の正体を暴露したとしても、それによって狂信の根幹を破壊したことにはならない。確かにそれによって、特定の場所から狂信が漏れ出てくることを防いだかもしれないが、たんに別の場所から狂信が漏れ出てくるようになったにすぎない。
「第4部 運動の発端から終焉まで」(p.229)

 つまりは、「甘え」の場を排除することによって、幼児を大人にさせようとするのではなく、「甘え」の場をちゃんと立て直すことによって、手をかけ手間をかけることによってのみ、人は成熟していくってことだ。


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