ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「カトリシズム キリスト教信仰の社会的展望」アンリ・ド・リュバク著 はこんな本だった

【ザックリとしたまとめ】キリスト教の「救い」は、自分だけの救いを目指す「個人主義的なもの」ではなく、すべての人類の救いを目指す「社会的なもの」である。なぜなら、我々は「個人」としてではなく「人類」として「キリスト」を結ばれたからである。

「カトリシズム キリスト教信仰の社会的展望」アンリ・ド・リュバク著 小高毅訳 エンデルレ書店 1989年10月10日初版

言い訳多めのマエガキ

 今回取り上げちゃうのは、アンリ・ド・リュバク(HENRI DE LUBAC)著の『カトリシズム』
 ちょっと前に、同じ著者の『神の恵みと人間』ってゆーのも取り上げたわね。
 でもって、「アンリ・ド・リュバク」ってゆー人は、おフランス生まれの神学者さんで、ウィキペディア情報によれば枢機卿にも選ばれたおエライさんみたい。

 そんなリュバクちゃんが、「序」で次のようなことを言ってるわ。
 キリスト教徒によく向けられる批判があるんだ、と。
 それは「お前らキリスト教徒ってヤツらは、自分さえ天国に行けたらそれでオーケーとか思っている〈個人主義者〉だろ」ってなものなんだ、と。
 で、こーした批判に対してリュバクちゃんは言うのよ。「それは誤解よ」と。「ひどいわひどいわ、そんなこと言われたらリュバク泣いちゃう」と。

我々キリスト者は、意に反しつつも、その信仰の論理から、個人主義者であると非難されているが、実際の所、カトリシズムは本質的に社会的なものである。実に、カトリシズムは徹頭徹尾社会的なものである。
「序」(p.8−9)

 だからね、本書を書き表すことによって、リュバクちゃんは、カトリシズムにおける「救い」ってのは、「自分だけ」の救いを目指す「個人主義的なもの」ではなくって、キリスト教徒&それ以外の人々を含めた「人類すべて」の救いを目指す「社会的なもの」だってことを示そうとしているのよ。

 ……にしても、本書は難しかったわ。だから、「『カトリシズム』をまとめてみました!」とは言ってはみたものの、その実態は「名著をバカはこのよーに解釈しました!」ってなことなのよね。

 だから、カシコ〜イ皆さんは、このバカのモーソーを鵜呑みにせず、ゼッタイにゼッタイにご自分の目で確かめてみてくださいね。ホントにいい本なんだから!
 ちなみに、本書は古書でしか入手できなくって、さらに6〜7千円という目をひん剥くような価格だったりするのよね(私はたまたまAmazonギフト券を貰ったから、それで買ったのよ。ちな定価は4500円)。

第一章 教理

 旧約聖書の教えによれば、「神様」ってば、ご自分に似せて「人間」を造ったんですって。
 それだから、「人類」には本来的に「共通点」があるのよ。そう、「神の像」ってゆー「共通点」がね!

実際、神の像は、この人にはこのようなもので、あの人にはあのようなものである、といったものではない。総ての人にあって、同じ像である。
「第一章 教理」(p.18)

 つまりね、「神の像」ってのは、頭のいい人にも、おバカさんにも、お金持ちにも、貧乏人にも、みんなの心の中に〈等しく〉あるものなのね。
 だから、「知識や力」のように、人によって〈バラバラ〉なもんじゃあないのよ。

 けれどもね、みなさんご存知のよーに、人祖アダムっちがやらかした「原罪」によって、人類はこの「神の像」を忘れやすくなってしまったの。「悪魔の誘惑」の特徴って、神様を軽視させる点にあるからよ。
 つまりね、この「原罪」のおかげで、人類は神様から離れ、自分たちが持つ知識や力の方ばかりを重視するようになって、やがてバラバラにバラけていった、ってわけなのね。

 で、そんな人類離散の大ピンチ、この危機的な状況にサッソーとあらわれたのが、〈イエス・キリスト〉ってなわけ。
 そして、キリストによって「神の像」が再び示され、彼の「十字架の贖い」によって人類は「救われた」ってわけなのよ。

 つまりね、キリスト教の「救い」ってのは、「人類」がバラバラの状態から、再び一つに結ばれたってことなの。
 それも、「知識や力」とかによってじゃあなくって、「神の像」ってゆー人間の本来的な「共通点」によって一つに結ばれたってことなのよ。

 ちなみに、これは「キリストの神秘体」とかゆー教えで、〈イエス・キリスト〉が「頭」、〈人類〉は手足や胴とかいった「肢体」、でもって私たち〈個人〉はその体の「部分」をなしている、ってなもんよ。

 で、でね。ここでと〜っても重要になってくるのが、私たちは、「個人」としてキリストに結ばれたのではなく、「人類」としてキリストに結ばれたのだ、ってことなの!

人類の本性の全体がいわば〔御言葉〕の体となっているのである。《〔御言葉は〕総ての肉たるものの本性を自らの内に受容された》。ということは、〔御言葉は〕この全体をゴルコタまで担い、全体を復活させ、全体を救われたのである。贖い主キリストは、一人ひとりにのみ救いを提供するのではない。キリストその方がこの全体の救いを成し遂げ、ご自身が全体の救いである。そこで、一人ひとりにとっては、この全体から締め出されず、排除されないという風に、自分の原初のキリストへの帰属を個人的に追認するところに、救いは存在するのである。
「第一章 教理」(p.21−22)

 だからね、この「神秘体」ってゆー教えは、カトリシズムの「救い」ってのが、「自分だけ」の救いを目指す「個人主義的なもの」じゃなくって、キリスト教徒&それ以外を含めた「人類すべて」の救いを目指してる「社会的なもの」だってことの証明なのよ。

 だって、キリストに結ばれてんのは、私とかアナタとかいうよーな「個人」じゃなくって、「神秘体」ってゆー「人類すべて」なんですもの。
(あと上記引用には、「個人」ってのはこの「神秘体」への帰属を〈追認〉するもんなんだ、ともあるわね。)

 だから、「ウェーイ、信心深いオレっちは、〈個人的〉に神との一体性を回復しちまったぜ。不信仰者の君らとは違うのだよ、デヘヘ」ってな言い分は間違っているのよ。
 そんな思い込みじゃ、逆に、救われている「神秘体」からはみ出しちゃうことになるわ。
 そんな「個人主義」じゃ、キリストの「神秘体」にポコンとできた「オデキ」みたいに、あるいは「神秘体」からひり出されてカピカピになった「ウンコ」みたいになっちゃうのよ。

第五章 キリスト教と歴史

 この広〜い世界には、いろんな「宗教」があるけれど、よく目にするのは「解脱」の思想ってヤツ。
 「ひとり、この世を離れ、孤独のうちに引きこもり、『悟り』を開くことによって救われる」ってなヤツよ。
 でね、リュバクちゃんは、こうした「解脱」の思想は「個人主義的」なものだって言うの。

 いろんな「宗教」の世界観では、「救い」っていうのは、この世ってゆーひっどいコッチ側から、平穏静寂なアッチ側へと、自分の能力を活かして逃避することを意味してた。
 だから、そこへ行くのは「自分一人」でも全然構わなかったわけ。
 つまり、知識や力といった「自分の持ち物」を頼りとした「個人主義的」な宗教ってわけね。

 けれど、キリスト教はそうじゃないの。
 キリスト教ってのは、「救い」が、アッチからコッチにやってきたってゆーの。キリストってゆー「救い」が、お空の天上から、私たちが住むこの地上に「うい〜っす!」ってな感じでやってきたのよ。
 だから、キリスト教は、「救い」ってのは、この地上に住む「すべての人類」に表されたものだって考えているのよ。
 つまり、「すべての人類」に降り注ぐ恩恵を信じる「社会的」な宗教だってことになるのね。

 だから、カトリシズムってのは、「救済感」ってゆー点でも、知識や力といった「自分の持ち物」を頼って「自分だけ」の救いを目指すもんじゃなくって、降り注がれる「神様の恩恵」を信じて「すべての人類」の救いを目指す「社会的なもの」だってことになるのね。

第七章 教会を通しての救い

 で、ここまで話してきて、ふと疑問に思うのは、「じゃあホントに、キリスト教徒でない人々、例えば『仏教』とかを信心している人たちも、ちゃんと救われんの?」ってことよね。
 本書『カトリシズム』は、その問題をも真正面から取り上げているわ。

 確かに、教会の教えには「教会の外に救いなし」ってゆーイキリ気味のものもあるのね。

キリストは法を説かれ、社会を築かれた。その双方を広めるようキリストは弟子たちに命じられた。ご自身に対する信仰とご自分の教会への参入とが救いの条件であると、キリストは宣言された。
「第七章 教会を通しての救い」(p.122)

 けれどもさ、さっきからず〜っと、キリスト教ってのは「すべての人類」に救いがもたらされたと考えてんだ、って言ってきたわけじゃん!
 だったら、この二つの教えは、あからさまに矛盾してんじゃない、ってな話よ。

 それに、実際に、「教会」に属していない人たち(例えば仏教徒さんたち)であっても、みんな「善」を目指して日々努力してきたってことは「歴史的な事実」なわけで、それなのに「オマエラは教会に属していないから地獄に落ちま〜すwww」とか言われたら、「ふざけんな!」ってなるわよね。

 リュバクちゃんも、その辺は意識していて次のようなことを言っているわ。

彼らの理解、彼らの果たす機能は甚だしく多様であっても、人類という家族の全成員は神のみ前では本質的に同等である。摂理によってキリストの体の構成に必要不可欠なものとして、「非キリスト者たち」は、彼らなりの方法で、この体からの生命の交流を享受しているに違いない。従って、『聖徒の交わり』の教理を拡大することで、彼らは救いをもたらす通常の状態には置かれていないが、彼らを信徒(キリスト者たち)と結ぶ神秘的な絆の力によって、彼らもこの救いを獲得し得る、と考えるのは正しいことであろう。一言で言えば、彼らは、救われるはずの人類の構成要素としての一部を成しているのであるから、救われ得るのである。
(注:彼ら=教会に属していない人たち)
「第七章 教会を通しての救い」(p.128−129)

 これを言い換えるなら、さっきから言っているよーに、キリスト教徒&それ以外を含めた「すべての人類」がキリストの「神秘体」なんだから、「すべての人類」が「救い」に与っているに違いないのよ。
 だけどもね、「教会の外」にいる人たちは、「救い」には与ってはいるんだけれど、それを世に「もたらす」こと、つまり「福音」ってのを告げ知らせることは出来ないってことなのよ。だって、彼らはそもそも「福音」を受け入れていないんだからね。

 で、この点を理解してれば、「教会の外に救いなし」ってゆーのイキリ気味の教えの理解もかわってくると思うの。
 つまり、この教えは、「教会の外にいるオマエラは滅びる!」ってなことを意味しているんじゃなくって、「この世に福音ってゆー救いもたらせるのは教会のみ」ってなことを意味してんのね。

 だからね、「教会の内」にいる人たちにとっては、この「福音を告げ知らせる」ってこと、いわゆる「宣教」ってのが、と〜っても重要な使命になってくるのよ。

 ちなみに、これは次の項にもかかわってくるもんなんだけど、この「宣教」ってのは、よく思われているよーに「教会」に属していない人たちに「画一的な価値観」を押し付けることを意味してんじゃないのよ。

第九章 カトリシズム

 みなさんご存知のよーに、むかしっからカトリックの一部にはキリスト教ではない諸宗教は排除すべし!」ってなことを声高に主張する超厳格派がいたのよね。

彼らは言う、偽りの諸宗教の内にあるものは皆、悪である。諸宗教は虚偽であり、退廃したものである。それは壊滅されねばならない。我々が前にしているのはサタンの国である。それは打破されねばならない。総てが変えられ、作り直されねばならない。新たに再建するために、総てが解体されねばならない。
「第九章 カトリシズム」(p.159)

 このよーに、カトリックの気難しい人たちったら、キリスト教外の諸宗教が生み出した文化とか伝統とか道徳とかいったものは、すべて「腐敗しきっている!」とか言って憚らなかったのよ。

 けれどもね、リュバクちゃんは、こんなコーマンチキな態度じゃあアカンし、異教の生み出したものもちゃんと尊重されなきゃアカン、って言っているのよ。

 でも確かに、諸宗教の人たちっていえば、「神様の恩恵」よりも「自分の持ち物」の方を頼りにしているんで、キリスト教からしてみたら「間違った」信仰を持っている、ってなことになるわよね。
 けれどもね、リュバクちゃんは、そうした「間違い」ってのは「悪」じゃない、って言うのよ。

そのような諸宗教は、背徳的な概念の上に立脚しているよりも、幼稚な概念の上に立脚している。
「第九章 カトリシズム」(p.160)

 このよーに、リュバクちゃんは、「自分の持ち物」に頼る人たちってゆーのは「幼い」ものだって言い切ってしまうんだけど、カトリックの厳格派のよーにその「幼さ」を「悪」とみなして排除するんじゃなくって、その「幼さ」をあたたかく向かい入れることによって、みんなで一緒に「神秘体」として成長していきましょう、って言うのよ。

 だって、キリストだって、「原罪」を抱えていて不信仰に陥っていた「幼い」人類を「悪」とみなして排除するために来たんじゃなくて、あたたかく向かい入れるためにやってきたんだからね!

主〔キリスト〕ご自身と同じく、キリストを宣べ伝える者らもまた打破するために来るのではなく、完成するために来るのである。即ち、廃棄するためではなく、高め、変容させ、聖化するために来るのである。彼らの直面する堕落そのものが、排除ではなく復興を求めているのである。《傷ついたものを癒せ、迷えるものを正しく導け》。
「第九章 カトリシズム」(p.160)

 そう、確かに、むかしの「宣教」の時代には、西洋人に違和感を覚えさせるからってな理由で、宣教地の民衆が持っていた独特な要素は毛嫌いされてきたんだけれど、そんな「上から目線」のコーマンチキな態度は改められなければならないってゆーことのなのよ。

 だって、「宣教」ってのは、「画一的な価値観」のよーな「外的」なものを押しつけるもんじゃあなくって、「神の像」ってゆーみんなが等しく持っている「内的」なものを発見発展させるためのもの、そして「神秘体」の一部であることを〈追認〉させるためのものなんだから。

第十二章 超越性

 そんでもって、みなさんご存知のよーに、私たち現代人は19世紀から20世紀にかけて「社会科学」の発展による「人類の一致」を目指してエッチラオッチラ奮闘努力してきたのよね。

〔現代人は〕全人類を組織化することを、全人類に充全的な自意識を持たせることを、全人類が一つに結ばれて、充全的な意味で人類となるに至ることを夢見ている。人間となることから人類となること、この夢をカトリック者はそのまま我が物とすることはできないが、忌むべき空想の産物として簡単に斥けることもできぬだろう。
「第十二章 超越性」(p.206)

 これってつまり、私たち現代人ってのは、知識や力といった「自分の持ち物」に頼ったやり方で「人類」を一つに結ぼうとしてた、ってことよね。

 キリスト教だって「人類」を一つに結ぶってのは本望なんだけど、それはさっきから行っているよーに「神の像」による一致、「内的」なものによる一致のことを指しているのね。
 だから、どんなにスバラシイ「外的」なものであったとしても、それに夢中になることによって、もっと大切なものであるはずの「内的」なものを忘れてしまってはいけない、ってなことなのよ。

 だから、リュバクちゃんは言うのよ。
 マルクスちゃんたちが夢みたよーに、人類が神様を捨て、そして「社会科学」の力によって幸福な社会を築き上げようとすれば、その時人類は「本質的な疎外」に陥るだろう、って。

それは、マルクスが描写する疎外以上に深刻で、本質的な疎外である。そのような人間を全く『解放された者』と仮定しよう。全く仮定であるが、その人は経済的な束縛から、同胞による搾取から、国家のあらゆる圧政から解放されているものと仮定しよう。仮にそうであるとしても、その人は『自由な者』となっているのではない。もはや他の人々によって支配されておらず、搾取されていない、という意味では、もはや社会は彼を抑圧していないが、それまで以上の抑圧を持って社会は彼の上にのしかかっている。社会が彼を全面的に吸収するからである。かつては、彼の内の何かしらは束縛と搾取から免れ得たが、今や彼は社会の一機能、『社会的な関係の総合』であるにすぎない。
「第十二章 超越性」(p.210−211)

 マルクスちゃんたちが夢みてたユートピアってのは、ひっどいこの世を平穏静寂なものに変えちゃおーってする試みなんだけど、それは同時に人間が「内的」なものから「外的」なものになっちゃうことを意味してんのよね。
 だって、知識や力といった「自分の持ち物」を豊かにすることにばかり夢中になっているんですもの。

 で、そんな「外的」がものばかりが豊かで、「内的」なものが乏しいままの人類じゃあアカン、ってゆーのがリュバクちゃんなのよね。
 つまり、リュバクちゃんが懸念している「本質的な疎外」ってのは、人間の「内的」な貧しさ、「神の像」が忘れ去られたままのことを意味してんのよ。

 まぁ、もちろん、リュバクちゃんだって、「社会科学」に厳しいだけじゃなくって、その貢献もちゃんと評価しているのよ(本書を読めばそれがわかるわ)。
 けれど、そんなことまでは、私のこの駄記事じゃまとめきれないわ。もうスペックオーバーなのよ!

 本書は、と〜っても面白くって、読めばタメになるものなんだけど、と〜っても濃密なので、バカが書いた薄っぺら〜いまとめ記事じゃ、その肝要な点ですら伝えきれていないと思うの!

 だから、興味を持ったみなさんは、ぜひぜひ本書を手に取って、自分の目で確かめてみてくださいね!

以上、おしまい。


■■■■■【関連する記事】■■■■■
uselessasusual.hatenablog.com