「ナザレのイエス」ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガー著 はこんな本だった(2/2)
【ざっくりとしたまとめ】「第4章 山上の説教」は極めて興味深い章であった。本章にはユダヤ教のラビ《ヤーコブ・ノイスナー》氏が出てくる。彼の発想が非常に興味深かった。ユダヤの人々によって「モーセのトーラー」は神から与えられた「法」であった。それなのに「メシアのトーラー」を説くイエス・キリストはこのトーラーに《不従順》であるかのように見えた。そして、ここが興味深かった点だが、イエスが《不従順》に見えたのは彼が「モーセのトーラー」を《破った》からではなく《付け加えた》からだというのである。この《付け加える》ことによって、「イエス自身」が神から与えられた「法」になってしまったのである。ノイスナー氏にとって《付け加える》ことはユダヤ教の核である「モーセのトーラー」を蔑ろにすることであった。
- 作者:ベネディクト16世ヨゼフラツィンガー
- 発売日: 2008/12/23
- メディア: 単行本
「モーセのトーラー」と「メシアのトーラー」
「トーラー」について語られた「第4章 山上の説教」は、本書において特に印象に残った章である。
ちなみに「トーラー」とは、本書の《用語解説》によれば「ユダヤ教の律法のこと。モーセ五書全体、または旧約聖書全体を指すこともある。(p.465)」とのこと。
この「第4章 山上の説教」において、カトリックの教皇である著者は「私は、イエス・キリストについてユダヤ教のラビ《ヤーコブ・ノイスナー》氏から非常に多くのことを学んだのじゃよ」としみじみと語っている。
著名なユダヤ人学者、ヤーコブ・ノイスナーは、その著書『一人のラビによるイエスとの対話』において、山上の説教の聴衆のうちに身を置き、イエスとの対話を行っています。これは非常に優れた本です。信仰心をもった一人のユダヤ教徒が、誠実さと畏敬の念をもって、アブラハムの子、イエスと行ったこの対話は、他のいかなる注釈書にも益して、イエスの言葉の偉大さに対する私の眼を開き、イエスの福音が私たちに迫る決断の重要性を私に意識させました。
「第4章 山上の説教」(p.104)
そして、『一人のラビによるイエスとの対話』において、イエスの言葉に耳を傾け、イエスと大いに語らったノイスナー氏であったが、結局、ノイスナー氏はイエスに別れを告げ、ユダヤ教に留まるという決断を下すのである。
ノイスナー氏がイエスに一度は近寄りながらも再び離れていった理由、それは「モーセのトーラー」に代わるものとして、イエスが「メシアのトーラー」を教えていたからであった。
「モーセのトーラー」は、ユダヤ民族にとって《神の言葉》であり、神が与えてくださった「法による社会秩序」であった。
それなのに、イエスが説いた「メシアのトーラー」は、ユダヤの社会秩序たる「モーセのトーラー」に《不従順》であるように見えたのである。
たとえばイエスは、当時のユダヤ人たちが重視していた「安息日」に《不従順》であるように見えた。
確かに、イエスは「人間が安息日のためにあるのではなく、人間のために安息日があるのである」(マコ2・27)と言い放って、ユダヤの社会秩序たる「安息日」を破ってしまうのである。
また「両親に対する敬愛」の掟についても同様である。
イエスは「だれでも、わたしの天の父を御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」(マタ12・50)と述べて、「血の結びつき」を重んじるユダヤの社会秩序に対して疑問符を示すのであった。
ではノイスナー氏は、「メシアのトーラー」が「モーセのトーラー」から「安息日」などの重要項目を《省いた》ものであるから、イエスに別れを告げたというのであろうか……。
答えは「否」である。
「私を不安にさせるのは、安息日の掟を弟子たちが破ったということではない。そのようなことは些細なことで、事実の核心をついていない。(p.148)」とノイスナー氏は述べている。
ではノイスナー氏が、イエスに別れを告げた理由とは一体何か……。
それは、《省いた》からではなく、「メシアのトーラー」が「モーセのトーラー」に《付け加えた》ものだからである。
イエスは一体何を《付け加えた》というのか……。
それは「イエス自身」を、である。
この点について、本書には次のような記述がある。
これによって、イエスは自らをトーラーそのもの、神の言葉そのものとして理解しているという、論争の真の核心が暴露されました。
「第4章 山上の説教」(p.152)
このように、イエスの説く「メシアのトーラー」によって、「イエス自身」が《神の言葉》そのものになってしまったのである。
それは、ユダヤ教の人々から見れば、「モーセのトーラー」の上を行くという《越権行為》のように思われたのである。
たとえば「安息日」を例に話してみよう。
ノイスナー氏がイエスに別れを告げたのは、イエスが弟子たちに穂を摘むのを許したからではない。
そうではなく、イエスが自分自身を「安息」そのもの、人々に休息を与えるものとして世に示したからである。
メシアの叫びと、人の子が安息日の主であるとの言葉を一つにまとめることによって、安息日についてのイエスの教えが見えてくるのです。ノイスナーは全体の内容を次のようにまとめています。「私のくびきは軽い。私はあなた方に休息をあげよう。人の子は真に安息日の主である。人の子は今やイスラエルの安息日なのである。だから私たちは神のように行動しよう」(九〇頁)
「第4章 山上の説教」(p.151−152)
このように、イエスは「イエス自身」が「安息日」そのものであると言い、「イエス自身」が《神の言葉》そのものであるという転換を行ったのである。
しかしながら、この転換によって、人間の「正しいあり方」が「ユダヤ教の伝統に従うこと(モーセのトーラー)」から「イエスに従うこと(メシアのトーラー)」に変更されることになったのである。
このようなイエスの転換は「モーセのトーラー」に従うノイスナー氏にとって、トーラーを解体することを意味していた。
そして、このトーラーの解体は、ユダヤの「法による社会秩序」の解体をも意味していたのである。
このように、ノイスナー氏がイエスに別れを告げたのは、「イエスに従うこと(メシアのトーラー)」によって、「モーセのトーラー」に従うことができなくなり、それによってユダヤの「法による社会秩序」が解体される恐れがあったからなのである。
確かに「イエスに従うこと(メシアのトーラー)」によって、「モーセのトーラー」は超越され、ユダヤ教の「法による社会秩序」は解体されてしまうのである。
けれども、解体して終わりではなく、「イエスに従うこと(メシアのトーラー)」によって、私たちはユダヤ民族に限定されない《普遍的》な「法による社会秩序」を新たに構築していくことができるだという。
自分たちで法的な制度・組織を形成してゆくために、神との一致の基礎の上に、政治的、社会的秩序の中で、何が神の意志との一致にふさわしいかを認識する自由が、すべての人間、すべての民族に与えられているのです。ノイスナーはユダヤ教的な視点から、イエスの説教において社会的な面がまったく欠けていることを批判したのですが、まさにこの欠如こそが、秘められた形においてではありますが、一つの世界史的な転換であったのです。他の文化圏においては、このようなことは起こることはありませんでした。具体的な政治的、社会的な制度は、宗教との直接の関わり、神聖立法的な考えから解放され、人間の自由な決定に委ねられたのです。
「第4章 山上の説教」(p.162)
「一つの世界史的な転換」とは、「法による社会秩序」が《固定化》されたもの、神から与えられたものだという考えではなくなったということである。
イエスによる変革によって、「法による社会秩序」は、《普遍的》なもの、私たちが自分の手で《自由》に組み立てていくものとなったのである。
しかしながら、このイエスのもたらしたこの《自由》。
注意しておかねばならないのは、それが「何が神の意志との一致にふさわしいかを認識する自由」であり、「神との一致」が必要不可欠な《自由》であるという点である。
けれども、私たちの暮らす現代社会においては、この《自由》が「神を欠いた自由」になってしまっている。
しかしこの自由は、急速に、神への視線、イエスとの一致の視線を奪われてゆきました。普遍性への自由、国家の正しい世俗性への自由は、絶対的な世俗主義へと変質し、神への視線が失われるとともに、絶対的な成果主義、実績主義が支配的になってゆきました。深い信仰を持ったキリスト者にとっては、トーラーの命令は代わることなく行動の基準であり続けます。キリストを信じる者にとっては、特にイエスとの一致のうちに神のみ旨を求めることが行動の道標であり、この道標なしでは理性は道を見失う危険に囲まれているのです。
「第4章 山上の説教」
イエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(マタ5・17−18)という言葉を残している。
イエスによって、ユダヤ民族に《固定化》された「法による社会秩序」は解体されたかもしれないが、《神の言葉》そのものが解体されたわけではないのである。
この事実は、「イエスに従うこと(メシアのトーラー)」によって、試行錯誤しながら《普遍的》な「法による社会秩序」を「完成」させていく義務を私たちが負っているということを表しているのかもしれない。
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