ハキダメ記

読んだ本の感想や自作詩など

「回勅 真理に根ざした愛」ベネディクト十六世著 はこんな本だった

【ザックリとしたまとめ】
すべての人に及ぶ「全人的発展」こそが、教会のめざす「真の発展」であり、この「真の発展」を果たすためには「真理に根ざした愛」という「神」に向かう姿勢が必要となる。

真理に根ざした愛

真理に根ざした愛

「回勅 真理に根ざした愛」ベネディクト十六世著 カトリック中央協議会 2011年6月15日初版 ENCYCLICAL LETTER "CARITAS IN VERITATE"

生きる姿勢としての「真理に根ざした愛」

 この書は、パウロ六世の手による回勅『ポプロールム・プログレシオ』の四十周年を記念するために2009年(日本語訳が出たのは2011年)に出された回勅である。

 また、その前年の2008年9月には、世界を震撼させた「リーマン・ショック」が起こっていたので、本回勅はその危機のこともふまえて、今後めざすべき「真の発展」の姿を示している。


 本回勅は、こう始まる。

 真理に根ざした愛は、イエス・キリストが、この世における生活、とくにその死と復活によってあかししたものであり、人間一人ひとりおよび人類全体の真の発展を支える主要な推進力です。
「序論」1

 本回勅の眼目は、この「真理に根ざした愛」にわたしたちが忠実であってこそ、わたしたちの社会は「真の発展」を遂げることができる、という点にある。

 そして、この「真理に根ざした愛」と共に生きることは、神から与えられた「使命」だという。

人は、愛と真理から完全に見放されることはありません。なぜなら、それは、神がすべての人の心と知性に植え付けた使命だからです。
愛と真理の探究は、人間に由来する乏しさから、イエス・キリストによって解放され清められます。
キリストはまた、神の愛の働きと、神が用意している真のいのちの計画を完全な形で啓示します。
キリストにおいて、真理に根ざした愛は神自らの顔となります。
「序論」1

 「真理に根ざした愛」に忠実であることと同じように「真の発展」を遂げることもまた、わたしたちに課せられた「使命」なのである。


 「発展」と聞けば、わたしたちは普通「技術の進歩」のことを思い浮かべることだろう。

 けれども、本回勅が示す「真の発展」は単なる「技術の進歩」を意味しない。

 もちろん、「発展」していく上で「技術」や「政治制度」の拡充は重要な役割を果たすが、それよりも前に「忘れてはならないもの」があるのだ、と本回勅はいうのである。

 その「忘れてはならないもの」とは「神」のことである。
 「真の発展」を遂げるには、わたしたちは「神」を必要とする、と本回勅はいうのである。

過去においては、制度の制定のみで、発展に対する人類の権利の実現を十分に保障できると、しばしば主張されてきました。残念ながら、このような制度には、あたかもそれによって目的が自動的に達成されるかのように、過度の信頼が置かれてしまいました。
現実には、制度だけででは十分ではありません。
なぜなら、人間の全人的発展は、本来、人間の本性的な使命であり、だからこそ、すべての人が連帯における責任を自由に引き受けることを必要とするからです。
しかも、このような発展は、人間に対する超越的な理解を必要とします。すなわち、神を必要とします。
神が除外されていれば、発展は否定されるか、あるいはただ人間のみにゆだねられます。そうすると、人間は、自らを救済できると考える罠にはまってしまい、最後には、非人間的な発展を促進してしまいます。
「第一章 『ポプロールム・プログレシオ』のメッセージ」11

 わたしたちが「神」を忘れて、人間の業だけに拘泥していては、やがて袋小路に迷い込んでしまうので、そこから抜け出すためにも「神」を必要とするというのである。


 では、ナゼ「神」が必要だというのだろうか???

 それを説明する上で、わたしたち「人間」を「木」に例えてみたいと思う。
 
 「木」であるわたしたちは、「発展(成長)」していく上で「技術」や「政治制度」、さらには「富」や「知識」といったような様々な「果実」をこの世にもたらすことができる。

 けれども、「木」であるわたしたちが「発展(成長)」していく上で何よりも大切なものとなるのは、この「果実」ではなく、「光」に向かって枝を伸ばしていくという「生きる姿勢」なはずである。

 そして、この「光」こそが「神」であり、これこそが「木」であるわたしたちにとって「ただ一つの大切なもの」なのである。
 また、この光に向かってゆく「生きる姿勢」こそが「真理に根ざした愛」なのだともいえるだろう。

f:id:uselessasusual:20200502182004p:plainf:id:uselessasusual:20200502182017p:plain

 わたしたちが「神」に向かって伸びていくことによって、わたしたちは社会的にも、そして人間的にも「発展」していけるのである。

発展は、単に物質的成長だけでなく、霊的な成長を含まなければなりません。人間は、神の創造的な愛から生まれ、永遠のいのちを定められた「肉体と霊から成り立つ一つのものである」からです。
人間が発展するのは、人間が霊的に成長をとげ、人間の魂が己を知り、また神が人間の奥深くに植えつけた真理を知るようになり、人間が自分と、そして創造主との対話を開始するときです。
人間は神から離れたとき、不安になり、落ち着きがなくなります。
社会的かつ心理的疎外および豊かな社会を悩ませる多数の神経症は、部分的には霊的要因に起因します。物質的な観点では高度に発展しつつも、魂には重い負担を課すような繁栄した社会は、それ自体では真正な発展に役立ちません。
「第六章 諸民族と科学技術の発展」76

 このように「真の発展」には「光」、つまり「神」が欠かせないというのが本回勅、またカトリック教会の主張なのである。



誰も置いてきぼりにしない「全人的発展」

 「真の発展」は、弱っている国や民族を置いてきぼりにするような「能力主義的」な性質のものであってはならない。

 「真の発展」は、誰も置いてきぼりにしない「全人的発展」なものでなければならず、これは本回勅が示すような共同体の中で発展していくものである。

 キリスト教が示すこの共同体は、かつて「全体主義」国家で起こったような、個人のアイデンティティを喪失させ、個人を「均質化」させるような「一体性」を意味してはいない。

 キリスト教における「一体性」は、個人のアイデンティティを喪失させるものではなく、三位一体の神秘で示されているように、相互の「交わり」、深遠な相互浸透を意味しているのである。

 また、キリスト教が示す共同体は、わたしたち個々人が、その尊厳を確立することを助ける性質のものでもある。

人間が自分の尊厳を確立するのは、孤立によってではなく、他者および神との関係に自分を置くことによってです。したがって、これらの関係は根本的な重要性を帯びてきます。同じことは民族についてもいえます。ですから、人間関係に関する形而上学的な理解は、民族の発展にとっても非常に有益なのです。
「第五章 人類家族の協力」53

 このことを先の「木」の例えで言い換えると、次のようになるだろう。

 わたしたちが自身の尊厳を確立できるようになるのは、自身の「果実」の《質の良さ》や《数の多さ》を誇るときではないのである。

 そうした「誇り」によっては、わたしたちは自分自身に囚われることになり、「孤立」し、尊厳を確立することはできない。

 わたしたちが自身の尊厳を確立できるようになるのは、囚われの状態から解放されて、先に述べたように「光」に向かって枝を伸ばしていくときなのである。

 「誇り」を手ばなし、「神」と和解し、「神」との関係に入ってこそ、わたしたちは自身の尊厳を確立するようになるというのが、キリスト教の教えであろう。

 「神」を欠いていては、わたしたちは自分の「果実」の立派さおよび多さだけを誇る「能力主義」に陥ってしまいがちである。

 確かに「果実」は味わい深いが、それに囚われてしまってはいけないのである。

 また、先に述べた「全体主義」国家で起こったような「一体性」は「果実」による「一体性」といえるかもしれない。
 この「一体性」は、わたしたちの「果実」を測り、それを「均質的」なものにしようとする性質のものである。

 このような「均質性」は「平等」をもたらすように見えるが、それは多様性を犠牲にした「平等」のように思われる。

 相互理解と正当な多様性に必要なのは、「全体主義」が示したような「果実」による「一体性」ではなく、本回勅が示したような「生きる姿勢」による「一体性」、わたしたちという多種多様な木々が「光」に向かって枝を伸ばしていくという、その「姿勢」による「一体性」なのだと思う。

f:id:uselessasusual:20200502191306p:plainf:id:uselessasusual:20200502191315p:plain