ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「異端者の群れ」G・K・チェスタトン著 はこんな本だった【その1】

【ザックリとしたまとめ】
今回からチェスタトンの『異端者の群れ』を取り上げるヨ😘
よく聞くのは「宗教やっている人って偏屈よね」って言葉😱
けれど、チェスタトンは「実生活でいちばん偏屈なのは、ぜんぜん信念を持っていない人である」って言うの🤭
で、偏屈と狂信から救われるには宗教が効くんですって😅本当かしら😳

G.K.チェスタトン著作集 5 異端者の群れ

G.K.チェスタトン著作集 5 異端者の群れ

「異端者の群れ」G・K・チェスタトン著 別宮貞徳訳 春秋社 昭和50年2月25日初版

まえせつ

 今回から数回にわたって、G・K・チェスタトンの『異端者の群れ』を扱っていこうと思う。

 けれど、チェスタトンの書は、読みやすいが、まとめにくいのだ。
 チェスタトンの才気が活発すぎて、話がビョンビョン飛ぶので、読んでいる時は面白いのだが、いざ話をまとめようとすると、要点がアチコチに散らばっているので、はなはだまとめにくいのである🥺。

 だから、これから取り扱うチェスタトンの記事は、かなり強引にまとめようとしているので、ワタクシの「独断と偏見」の要素が強めに出ていると思う。
 その辺は、勘弁してちょ🙄。許してちょ🤗。

 で、まず初回の今回は、はじめとおわりの章を取り上げてみる。
 どちらも「正統の重要性について」という副題が付けされているのだ。

 そして、この二つの章では、本書がメインで扱っている「異端者」よりも、「小人」なるものについて多く語られている印象だった。


「一 初めにーー正統の重要性について」

「正統」と「異端」の違いとは

 まず、「正統」とは何か、「異端」とは何か、ということについて振り返っておこう!

 で、この辺のことは、最近ワタクシのブログによく登場する来住英俊氏の書にわかりやすくまとめられている。

 来住氏は、「正統」と「異端」の違いを説明するためにイエス・キリストは神であり、人である」というキリスト教の教義を取り上げている。

 そして、キリスト教の「正統」思想は、「キリストは神である」と「キリストは人間である」、という相反する二つの命題を二つとも「真理」であると定義しているのだ。

 他の例で言えば、「神の全権」と「人間の自由」もそうである。

「すべては神の意思による」という命題と、「人間は努力しなければならない」という命題の矛盾です。キリスト教は、この場合も、どちらの命題も捨てません。しかし、神の業が七〇パーセントで、人間の努力が三〇パーセントだとも言わない。どちらの命題も一〇〇パーセント正しいと言います。
「『ふしぎなキリスト教』と対話する」来住英俊著(p.59)

 さらにワタクシが一つ付け加えさせていただければ、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」(マタイ10:16)もまた、相反する二つの命題といえるだろう。

 これらの相反する二つの命題、そのどちらも「真理」と定義することは、明らかに「パラドックス(矛盾)」である。
 そして、このパラドックス」があるものの「多面的」な思想こそが「正統」思想なのである。

 一方で、「異端」思想には、こうした「パラドックス」は存在しない。

異端とは、だいたい何かの命題を積極的に主張することではなく、キリスト教が捨ててはならない命題を否定することです。「イエス・キリストは人間だ」と言うことは、「神である」ことを否定しているわけではない。しかし、「神ではない」と言えば、異端です。「イエス・キリストは神だ」と言うことは、「人間である」ことを否定してはいない。「人間ではない」と言えば異端です。
「『ふしぎなキリスト教』と対話する」来住英俊著(p.57)

 このように、「異端」思想とは、「パラドックス」を排除し、それ故に「合理的」かつ「一面的」となった思想のことを指している。
 ということは、先の「蛇のように賢く、鳩のように素直に」の例で言えば、「賢さ」を採るか「素直さ」を採るか、どちらか一つを選ばなければならなくなるのだ。
 あるいは、「賢さ」が七〇パーセントで、「素直さ」が三〇パーセントといったふうにして、二つの命題を一つに混ぜ合わせ、二つの命題の相違をアイマイなものにしなければならなくなる。

 「異端」思想については、イエズス会司祭のピーター・ミルワード神父も「解題」で次のように述べている。

「異端」とは、当世風を無理にやぶることではなく、その伝統の中の何かをみずから選び取り他のすべてを捨てること、それによって真理のバランスを失うことを意味するのである。
「解題」(p.266)

 以上が、「正統」と「異端」の大体のニュアンスである。

パラドックス」が人間を正気にする!?

 先に出てきたピーター・ミルワード神父であるが、彼は「解題」で、次のようなことも述べている。

 一言で言うなら、チェスタトンがここで明らかにしているのは、「異端者の群れ」には一面的にとっぴなところがあって、そのために彼らはさまざまな不健全に立ち至るということ、それに対し、「正統」には多面的にとっぴなところがあって、それが凡人の健全さを保証し、神の臨在する欠けるところのない真理に人を導いて行く、ということである。
「解題」(p.272)

 「正統」思想には「パラドックス」がある。「パラドックス」とは人々を混乱させるものである。そして、人間は混乱すると〈不健全〉に立ち至りそうなものである。
 では、なぜ、「パラドックス」のある「正統」思想の方が、人々の〈健全さ〉を保証する、というのだろうか???

 それは、人の目には「パラドックス」に映るものこそ「真理」だからだという。
 チェスタトンは、別の書『正統とは何か』(以前取り上げた。下にリンクを貼っておきます)の中で、次のようなことを述べている。
 ちょっと長いが引用してみよう。

平常平凡な人間がいつでも正気であったのは、平常平凡な人間がいつでも神秘家であったためである。薄明の存在の余地を認めたからである。
(略)
大事なのは真実であって、論理の首尾一貫性は二の次だったのである。かりに真実が二つ存在し、お互いに矛盾するように思えた場合でも、矛盾もひっくるめて二つの真実をそのまま受け入れてきたのである。人間には目が二つある。二つの目で見る時はじめて物が立体に見える。それと同じことで、精神的にも、平常人の視覚は立体的なのだ。二つのちがった物の姿が同時に見えていて、それでそれだけでよけいに物がよく見えるのだ。こうして彼は、運命というものがあると信じながら、同時に自由意思というものがあることを信じてきたのである。
(略)
つまり、人間は理解しえないものの力を借りることで、はじめてあらゆるものを理解することができるのだ。狂気の論理家はあらゆるものを明快にしようとして、かえってあらゆるものを神秘不可解にしてしまう。
「正統とは何か」G・K・チェスタトン著(p.39−40)

 チェスタトンは、「パラドックス」、相反する二つの「真理」を、人間の「右の目」と「左の目」に例えるのである(この辺がチェスタトンを読んでいて面白いところだ)。

 「キリストは神である」と「キリストは人間である」、「神の全権」と「人間の自由」、あるいは「蛇のように賢く」と「鳩のように素直」、こうした相反する「真理」、「右の目」と「左の目」があったからこそ、事物を〈立体的〉に捉えることができ、それが人々の〈健全さ〉を保証してきたのだ、とチェスタトンは言うのである。

小人、〈信念〉を放棄した者

 また、「正統」思想は、「普遍的」な思想でもある(本書では「一般的な理論」とか「万物」とかと表現されているが、ここは強引に解釈させてもらい「普遍的」とした)。
 けれども、今の世は、「普遍的」な思想は人々を拘束する〈悪いもの〉を意味するようになった。
 というのも、「普遍的」な思想は、人生における「目的」を〈人類共通〉のものとするからである(この目的は「神に向かうこと」とかかな)。
 
 一方、「異端」思想は、進歩的な思想として市民権を得るようになった。
 というのも、「異端」思想は、人生における「目的」を〈個人別〉のものとしているからである(この目的は成功とか、権力とか、モテまくる!とかかな)。

 だがしかし、この「普遍的」なものを手放した結果、人々は「小人」になったのだ、とチェスタトンは言うのだ。
 そして、この「小人」は、神に対する冒瀆の言葉すらも「信仰者」に劣るのだという。

ミルトンは、自身の敬虔さにおいて彼らを凌駕するのみならず、彼らの不敬においても彼らを凌駕している。彼らの些々たる詩集のいずれにも、サタンの挑戦以上にみごとな神への挑戦は一つとして見られない。また、地獄を侮るかのごとく傲然と頭を上げるファリナータを描いた、かの熱情のキリスト者が感じたほどの壮大な異教主義も見出しえない。その理由は明々白々である。瀆神は哲学的確信に依拠すればこそ芸術的効果を持つ。瀆神は信仰に依拠し、信仰と共に消滅する。
「初めにー正統の重要性について」(p.11)

 「不敬においても凌駕している!」というあたりがチェスタトン節だが、このスバラシキ不敬についてワタクシにも少し心当たりがある(ここから閑話に入ります😋)。

 ワタクシが「キリスト教」に興味を持ち始めたのは、ドストエフスキーからである。
 ドストエフスキーの小説のテーマは、主に「キリスト教」、特に「無神論」だ。

 当時のワタクシは、ドストを読みながら「神なんていないのに、何を神、神と騒いでいるのだろう???」と不思議に思っていたものの、同時にそんなんでワーワー騒いでいられる彼らをうらやましく感じていた。

 中でも、ラスコーリニコフ罪と罰)やイワン・カラマーゾフカラマーゾフの兄弟)、そしてニコライ・スタヴローギン(悪霊)という無神論者」の登場人物に、ワタクシは心惹かれていったのである。
 「神」を信じていたわけではないが、クソすぎる「運命」を疎ましく思っていたワタクシは、それらに逆らおうとする彼らの力強い生き方に激しく憧れた。

 であればこそ、ワタクシは彼らのような「無神論者」に、否、彼らのもっと先にある「完全なる無神論者」になりたかったのだ(彼らは転向したり狂ったりするからね)。
 そして、その場所へは、今の自分のような不可知論や懐疑主義の「中途半端な無神論」じゃ行けない!と思ったからこそ、「神」なる存在と真っ向から対峙するために、キリスト教に入り込んでいったと言っても過言ではない(ちょっと話を盛ってはいるが、そういう一面もあったよ、という話。基本、ワタクシは純情でウブなクズよ😘)。

 で、である。
 確かに、ミルトンの「失楽園」に見られるサタンの力強い冒瀆の言葉(天国において奴隷たるよりは、地獄の支配者たる方が、どれほどよいことか!等々)にはゾクゾクっときて、サタンにクラクラっと魅了されていくのであるが、不可知論者たちの「神」に対する冒瀆の言葉は、にっくき相手を眼前に見据えていないからか、なんだかひどく迫力を欠いたもののように感じられてしまうのだ。

 閑話休題……。

 話を元に戻して、この「小人の群れ」には、「異端者」は入っていないのだと思う(チェスタトン氏が明言しているわけではないが)。
 なぜなら、「異端者」は、彼独自の〈ドグマ〉を持っているからだ。彼らには一応の〈信念〉があるからだ。
 たとえそれが「パラドックス」を排除したもの、「一面的」なものであっとしても、だ。

 チェスタトンが批判している「小人」。
 それは、異端の〈ドグマ〉すら持たない、全てを「疑い」、全てを「冷笑的」に見る人たちのことを指しているように思われる。


「二十 おわりにーー正統の重要性について」

宗教を廃して、人は寛容になったか

 「小人」は、何かしらの〈ドグマ〉、何かしらの〈信念〉を持つことを忌避する。

 それというのも、宗教のような〈ドグマ〉や〈信念〉が、人類に「偏狭」という害をおよぼしてきたと思っているからだ。
 であるから、彼らはその予防策のために、あらゆる〈信念〉を「懐疑的」に見るのである。

 そんな彼らに対して、チェスタトンは次のようなことを述べている。

優雅な懐疑主義にひたって一つまた一つと教義を捨てる時、ある体系に自分を結びつけるのを拒 否する時、自分は定義におさまりきらないと称する時、自分は目的性を信じないと言う時、われ とわが想像の中で、一切の信条を持たず万物を観照する神として坐している時ーーその時人間 は、まさにその行為によって、放浪の動物、意識なき草木の無明の界に、徐々に徐々に後退して行っているのだ。木はドグマを持たない。カブはたぐいまれなほど心がひろい。
「おわりにー正統の重要性について」(p.247)

 チェスタトンは、人間社会のよりよき発展のために〈信念〉を捨て去った者たちは、精神的に「進歩」したのではなく、「退歩」したのだという。

 さらに、〈ドグマ〉や〈信念〉を捨て去った彼らが、「偏狭」でなくなったというのは嘘っぱちだ、と言うのだ。

しかし、ほんの僅かでも身近な体験をしてみれば、こんな考えなど煙のように消えてしまう。実生活でいちばん偏屈なのは、ぜんぜん信念を持っていない人である。
(略)
偏狭とは意見を持たない人間の怒りである、と大ざっぱな定義を下すこともできよう。それは、明確な思想に対して、度はずれに不明確な思想を持つ朦朧とした巨大な人間集団から向けられる抵抗である。無関心な者のすさまじい狂気と呼んでもよい。
「おわりにー正統の重要性について」(p.254)

 〈信念〉のある者が「偏狭」なのではなく、逆に〈信念〉のない者が「偏狭」なのだ、というのがチェスタトンの逆説である。

 では何故、〈信念〉なき者の方が「偏狭」だというのだろうか???

「偏狭」という害を克服するには、宗教につかること

 確かに、宗教には「偏狭」と「狂信」がつきものである。
 しかし、宗教を捨て去ったからといって、この害悪を克服したということにはならない。

宗教的な信念、哲学的な信念は、たしかに火のように危険で、何物をもってしてもそこから危険の美を取り去ることはできない。しかし、その過度の危険から間違いなく自分を守る方法が一つだけある。それは、哲学にひたり宗教につかることである。
 要するに、われわれは偏屈と狂信という二つの対照的な危険を排除するのである。偏屈とは、過度の曖昧、狂信とは、過度の集中にほかならない。偏屈者につける薬は信仰、理想主義者につける薬は思想だとわれわれは言うのだ。
「おわりにー正統の重要性について」(p.256)

 「偏狭」と「狂信」。この二つの害悪を克服するためには、やはり「パラドックス」が必要なのだ。

 例えば、先の「蛇のように賢く、鳩のように素直に」という「パラドックス」。
 この時、「蛇のように賢く」の方を選んで「パラドックス」を解決してしまえば、人は「偏狭」に陥ってしまうだろう。
 あるいは、「鳩のようの素直に」の方を選んで「パラドックス」を解決してしまえば、人は「狂信」に陥ってしまうだろう。
 さらには、「賢さ」を七〇パーセント、「素直さ」を三〇パーセントといったふうに、二つのものを自分好みの用量で混ぜ合わせて一つのものにし、「パラドックス」をアイマイなものにしてしまえば、これもまたアカンのである(けれど、これはよく行いがちな一般的な処世術であろうと思う)。

 来住氏は次のようなことを述べている。

パラドックスは解決するものではなく、それと格闘し、それを生きるべきものです。
「『ふしぎなキリスト教』と対話する」来住英俊著(p.61)

 だから、上の例で言えば、どちらか一方を選んで他方を捨てるのではなく、あるいは二つを一つに混ぜ合わせて相違をアイマイにしてしまうのでもなく、二つの命題、そのどちらも一〇〇パーセントの力で突き詰めていく姿勢が必要なのだ。
 言うなれば、ことこん「賢く」、とことん「素直に」、である。

 そして、この二つの間でモミモミ揉まれながら生きていく、ということなのだろう。

以上、おしまい。


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