ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「異端者の群れ」G・K・チェスタトン著 はこんな本だった【その10】「マッケイブ氏と崇高なる軽薄について」「スラム小説家とスラム街」

【ザックリとしたまとめ】1、厳粛だけがまじめなのではない。まじめに冗談をぶちのめすことだってある。そしてチェスタトンは言う、「思慮のない謹厳」こそが本当の不まじめ、本当の軽薄なのだ、と。2、民主主義は庶民に対する「敬意」を基盤とするものである。であるからして、たとえばオロカナル庶民にスウコウナル倫理を手取り足取り教えてやるような、庶民に対する「あわれみ」を基盤としているのではない。

「異端者の群れ」G・K・チェスタトン著 別宮貞徳訳 春秋社 昭和50年2月25日初版

はじめに

 今回でチェスタトンの「異端者の群れ」のまとめは終了!

 でもって「十五 ハイカラ小説家とハイカラ仲間」と「十七 ホイスラーの機智について」、「十八 新興国の謬説」の三つの章のまとめは割愛!

 今回は「十六 マッケイブ氏と崇高なる軽薄について」と「十九 スラム小説家とスラム街」の二本に絞った!

 トニカク、も〜今回で「異端者の群れ」は終了!!
 

「十六 マッケイブ氏と崇高なる軽薄について」

 この話に出てくる〈マッケイブ氏〉。
 話の中では、ただマッケイブ氏、マッケイブ氏と語られているばかりで、一向にドコのドナタか分からなかったのだが、ネットでサクサクっと調べてみると、それはどうやら、ジョゼフ・マーティン・マッケイブ(Joseph Martin McCabe)なる人物のことのようだ。

 ちなみにWikipedia情報によれば、この〈マッケイブ氏〉は、カトリック教徒だったのだが、途中で信仰を捨て、カトリック教会やキリスト教に対して「合理主義」の立場からの批判を加えるようになった人みたい。

 でもって、この〈マッケイブ氏〉。
 その伝にのって、カトリック教徒のチェスタトンにも批判を加えるのだが、その批判と言うのは、チェスタトンがあまりに「軽薄」すぎるといったもの。

 ……どういうことかというと、ある論争、たとえば「真理」なるものはハタシテ科学にあるのかソレトモ宗教にあるのかと言ったような問題は、至極「まじめ」なものであるハズなのに、その論争において、チェスタトンは「逆説」や「パラドックス」を繰り返すばかり、「ふざける」ばかりでちっとも「まじめ」に考えようとしない、という批判をチェスタトンに加えたのである。

 こうした批判に対して、チェスタトンは次のように答えている。

 マッケイブ氏は、私がまじめではなくただふざけているだけなのだと考えている。「ふざけている」は「まじめ」の反対だと考えているからである。しかし「ふざけている」は「ふざけていない」の反対で、ほかの何の反対でもない。
「マッケイブ氏と崇高なる軽薄について」(p.189)

 チェスタトンは、論争において「逆説」や「パラドック」を繰り返すのは、自分が至極「まじめ」に考えているからだよ、と言うのである。
 つまり、大いに「まじめ」だから「ふざけてる」のだと。

 そして次のように言葉を続ける。

 つまるところ、マッケイブ氏は、聖職者タイプの人に非常に多い根源的な錯誤におちいっているのである。多くの聖職者が私に機会あるごとに小言をおっしゃる、宗教を冗談のタネにするなと。そして、ほとんどいつも、あのまことに分別ある十戒の一つをタテにお取りになる、「なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ」

 チェスタトンは言うのである。
 「まじめ」な問題について、「冗談」をまじえて語ることは、ちっとも「みだり」なことではない、と。
 そして、さらに言う。
 「みだり」とは、「用もない」のにそれについて語ることなのだ、と。

主の名をほんとうにみだりに呼んでいる人は(私はごきげんを損じないように教えて差し上げたのだが)、ほかならぬ聖職者なのだ。根本的にまぎれもなく軽薄なもの、それは思慮のない冗談ではない。根本的にまぎれもなく軽薄なもの、それは思慮のない謹厳である。
「マッケイブ氏と崇高なる軽薄について」(p.190−191)

 マッケイブ氏や聖職者は、チェスタトンの「思慮のない冗談」を「軽薄」だと言う。
 けれども、マッケイブ氏や聖職者がみせる「思慮のない謹厳」こそが本当の「軽薄」なのだとチェスタトンは言うのである。

 この「思慮のない謹厳」に関連して、チェスタトンは次のようなことも述べている。

今日の世界では、厳粛はまじめの正反対の敵だからである。今日の世界では、まじめはほとんどいつでも一方の側、厳粛はほとんどいつでもその相手側に立っている。まじめ軍が激しく嬉々として攻めかかれば、それに応戦して応えるものはただ一つ、厳粛軍のみじめな答えがあるばかり。
「マッケイブ氏と崇高なる軽薄について」(p.192)

 この引用から感じたのは、「まじめ」は子供に似ており、「厳粛」は大人に似ているのでは? ということである。

 「まじめ(子供)」は嬉々として「真理」に攻めかかるのに、「厳粛(大人)」がその間に立って「ふざけるのはよしなさい!」と叱って、真理探究の邪魔をする、と言ったような。

 そして、「思慮のない冗談」には満ちあふれており、「思慮のない厳粛」には欠けているもの、それは「喜び」や「楽しみ」であると言えよう。

 そして、この「喜び」や「楽しみ」といったものこそが、「真理」に近づいていくものなのではなかろうか。
 マッケイブ氏の望むような「厳粛」一辺倒では、「真理」を解き明かすことはできないのではなかろうか。

 この「喜び」や「楽しみ」こそが「まじめ」なものであるのだと、チェスタトンは考えているのかもしれない。
 そして、「喜び」や「楽しみ」のある「厳粛」こそが、本当の「厳粛」であると。

 けれども、私たちはそれを忘れて、ただ「厳粛」でさえあれば、それが「まじめ」なことだと思いがちではなかろうか。

「十九 スラム小説家とスラム街」

 本章において語られているのは、「民主的」とは何か、「民主主義」とは何か、ということである。

 この「民主的」に関連して、チェスタトンは次のようなことを述べる。

 このように、われわれは宗教において非民主的で、それは、貧乏人を「訓育」しようとする努力に立証されている。政治においても非民主的で、それは、貧乏人をよく治めようというおめでたい努力に立証されている。
「スラム小説家とスラム街」(p.237)

 チェスタトンは、上の者が民衆を「手なずける」ようなことは「非民主的」なことである、と述べている。

 で、ここで思い起こされたのが、以前取り上げた『ソレルのドレフュス事件中公新書)』
 その記事の中で、私は次のようにまとめていた。

そしてソレルは、その民衆大学に、ブルジョワの傲慢と偽善、そしてかましい支配欲を見たのである。
 多くの知識人を輩出するブルジョワは、あらゆる階級を消滅させ「平等」を実現しようとするが、同時進行で、知識人から成る「教師集団」と民衆から成る「生徒集団」に人間を分けようとしていた。なぜなら、知識人は民衆に、考えるべきこと、言うべきことを指示しなければならない、というのが彼らブルジョワの一大テーゼであるからである。

 このように、ジョルジュ・ソレルもまた、民衆を手なずけようとする教養人に懸念を抱いていたのである。

 で、この「ブルジョワの一大テーゼ」は、今日でもまだ平然として生き続けているようである。
 私たちの社会においても、教養人は、無教養な民衆を「訓育」することこそが自身の務めと考えているのではないか。
 つまり、上に立つ教養人が、下にいる民衆に手を差し伸ばし、彼らに近づいていって教育及び指導を施すこと、これこそが上に立つ者の務めだと自覚しているのではないか。

 けれども、これら教養人は、無教育な人に「隣人」として近づいていったのではない。
 彼らは、無教育な民衆を「支配するため」に、彼らを「取り込むため」に近づいていった、と言う見方もできる。

 また、「民主主義」については、チェスタトンは次のように述べている。

民主主義は博愛ではない。愛他主義や社会改革ですらない。
民主主義は庶民に対するあわれみを基盤としているのではない。民主主義は庶民に対する敬意を基盤としている。あるいは恐れを基盤としていると言ってもよい。民主主義が人間を護持するのは、人間がみじめだからではなく、人間が崇高だからである。
「スラム小説家とスラム街」(p.230−231)

 チェスタトンは言う。
 「民主主義」とは、無教育な民衆に対する「敬意」に基づくものだ、と。

 で、ここでも思い起こされるのが先の『ソレルのドレフュス事件(川上源太郎著)』である。
 その記事の中で、私は次のようにまとめていた。

 このようにブルジョワは、労働者を富ませブルジョワ化することによって彼らを懐柔しようとしていた。しかし、ソレルが、ブルジョワジーに求めていたのは、労働者に対する「尊重」であったのではないだろうか。
 置かれている立場や持って生まれた性質の違いに対する、いわゆる「らしさ」に対する尊重であったのではないだろうか。
 実際、ソレルは、性や年齢、職分など、様々な「差異」を強調した思想家でもあるという。

 教養人は、民衆を「仲間」として取り込むことによって、民衆を懐柔しようとしていた、とも言えよう。
 前回の記事でも書いたが、この「仲間」なるものは、「共感」に基づくものである。
 そして、この「仲間」の世界は、前回の記事でも書いた通り「偏狭」な世界である。
 なぜなら、「共感」に基づく世界は「らしさ」を尊重しないからである。
 この世界は「同じトコロ」は尊重するが、「違うトコロ」は認めようとしない世界である。

 そして、この「らしさ」を尊重するものこそが、「隣人愛」なのだと言えよう(これも前回の記事の続きになるが)。

 そして、チェスタトンの考える「民主主義」とは、この「隣人愛」に基づいたものだと言えよう。
 それは、「差異」を尊重する社会なのである。

 みんなが同じ価値観を持てるように人々を「手なずける」社会は、チェスタトンの考える「民主主義」ではないのだ。

以上、おしまい。



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