「異端者の群れ」G・K・チェスタトン著 はこんな本だった【その9】「ある現代作家と家族制度について」
【ザックリとしたまとめ】チェスタトンは「ある現代作家」に批判されている「家族制度」を擁護するのだが、その擁護が一風変わっていて、家族は平和でもなく楽しくもなく一致もないからスバラシイものなのだという。「家族」という気心の合わない人たちがいる場こそ「隣人愛」の実践の場であるからである。
「異端者の群れ」G・K・チェスタトン著 別宮貞徳訳 春秋社 昭和50年2月25日初版「十四 ある現代作家と家族制度について」
家族制度は迷妄か
「家族制度」というものは、チェスタトンの生きた当時から、スルドイ頭脳をもった進歩的な人たちによって、その批判の対象とされてきたようだ。
本章は、そういった批判にチェスタトンが一言物申す、といったテイをなしている。
……とはいえチェスタトンの「家族擁護論」は、「それはハタシテ擁護なのか?」と思えるほどヒドイもののように感じられる。
誰もが首肯できる、穏健で、一般的な「家族擁護論」は次のようなものであろう。
よくお目にかかる家族擁護論は、人生の緊張と気まぐれの中で、家族には平和と楽しさと一致があると言う。
「ある現代作家と家族制度について」(p.156)
そうそう、これこそがわれわれが思い描く「楽しい我が家」ではなかろうか。
それに対する、チェスタトンのヒドイ「家族擁護論」は次のようなもの。
その擁護論は、家族は平和でもなく、楽しくもなく、一致もないと言うのだ。
「ある現代作家と家族制度について」(p.156)
「家族」というものは、「一致している」から(・∀・)イイ!!のではなく、「一致してない」から(・∀・)イイ!!のだというのが、チェスタトン流の「家族擁護論」なのだ。
そして、このドイヒーな擁護論でもって、チェスタトンは「家族制度」の批判者たちにも戦いを挑むのである。
家族という制度はよくないものだと、多少とも率直に示唆している現代作家は、だいたいにおいて、多くの痛み、苦さ、あるいは哀愁をこめて、家族は必ずしも気心の一致するものではないらしいからと言うにとどまる。もちろん、家族は気心が一致しないからこそよいものなのだ。家族は多くの相違と変化を含む故にこそ健全有益なのだ。
「ある現代作家と家族制度について」(p.163)
う〜ん、……こうした言動を見聞きしていると、チェスタトンこそが「家族制度」のいちばん厄介な批判者じゃないのか! と思えてくる。
進歩的な人たちよりよっぽど手ひどく家族の夢をぶち壊しにかかっているよ。
けれど、チェスタトンがこんなヒドイ擁護論をブチ上げたのにもワケがある。
それは、人間が相手のことを思いやれるようになり、精神的に成長するのは、「共感に基づいたグループ」の中ではなく、「自分と異なる人々」の中にこそある、とチェスタトンが考えているからだ。
つまり「平和と楽しさと一致」の中では、人間の精神的な成長は見込めない、とチェスタトンは考えているのだ。
共感に基づいたグループ、仲間
私たちは、自分のまわりに「平和と楽しさと一致がある」ことを望むものである。
そして、それが可能となるのは、自分と趣味趣向が合う人々が集まった「共感に基づいたグループ」の中においてである。
大きな社会は徒党をつくるために存在する。大きな社会は偏狭さを助長する社会である。それは、孤独で繊細な個人を、互いに歩み寄りを必要とする苦しい厳しい人間経験から守ってやるための機械である。それは、まさに文字通りかけ値なしに、キリスト教的知識を阻害する社会だと言ってよい。
「ある現代作家と家族制度について」(p.157)
確かに「共感に基づいたグループ」の中には「平和と楽しさと一致」がある。
けれども、それはグループの〈外〉に現存している「苦しい厳しい人間経験」から守られているからであろう。
また、彼らが思いやりを示すのは、グループの〈中〉に対してだけ、自分たちの「仲間」に対してだけに限られる。
自分と異なる人びと、他人→隣人
「兄弟姉妹は他人の始まり」という言葉がある。
兄弟姉妹は、私たちと気心の合う「仲間」ではない。
つまり彼らは「自分と異なる人々」であり「他人」なのである。
では、この「他人」と、キリスト教的な「隣人」の違いはどこにあるのだろうか。
その答えは、新約聖書の「よきサマリア人のたとえ(ルカ10:25−37)」のなかに見出せよう。
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【簡略版:よきサマリア人の譬え話】
これはイエスが「隣人とは誰ですか?」と問われたときに話した譬え話である。
とあるオッサンが追いはぎに襲われて道端に倒れている。
オッサンと同胞の者が二名、同じ道を通るのだが、彼らはオッサンを助けようとせず、関わりあいになるまいと足早に通り過ぎていく。
そこに異邦人であるサマリア人がひとり通りかかる。この人はオッサンを哀れに思って助けの手をのべる。
で、イエスは「この三人の中で、誰がオッサンの隣人になったと思いますか?」と先に問うた人に尋ね返すのである。
つまり、このオッサンに助けの手をのばした異邦人のサマリア人こそが、オッサンの真の隣人である、というお話
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この譬え話でいうと、通り過ぎた人にとって、倒れていた人は同胞であるが「他人」に過ぎない。
けれども、サマリア人はオッサンの同胞ではないのだが、オッサンを「隣人」として扱い、助けの手をのべたのである。
つまり、気心が合致するわけでもない「自分と異なる人々」、つまり「他人」であっても、その人に思いやりを示せば、彼らはわれわれの「隣人」になる、というわけなのだ。
でもって、チェスタトンは、この「隣人」について、次のようなことを述べている。
われわれは友だちをつくる。敵をつくる。しかし、神はわれわれの隣人をつくる。
(略)
だからこそ、古い宗教や古い聖なる書物の言葉は、鋭い英知の切れ味を見せて、人類に対するつとめではなく、隣人に対するつとめを語っているのだ。
「ある現代作家と家族制度について」(p.161)
私たちは、「仲間」のなかに閉じこもりがちである。
けれど、神は私たちにその「仲間」の〈外〉にも目を向けることを望む。
つまり、「仲間」の〈外〉にいる人々にも、思いやりを示し、彼らをどんどん「隣人」にしていかなければならないのだ。
人類愛と隣人愛について
先程の引用に「人類に対するつとめではなく、隣人に対するつとめを語っている」とあった。
「人類」というのは、抽象的な概念だと言えよう。
この「人類」というものは、うざったい「隣人」に比べるとはるかに接しやすい存在だ。
だから、この「人類」を愛することは、「仲間」を愛することと似通っていて、たやすいことだと言えるだろう。
人類に対する義務は、しばしば親しみのある、楽しみでさえある選択という形をとる。その義務は道楽でもありうる。放蕩でさえありうる。われわれは、特に自分が貧民街で働くのに向いているから、あるいは自分でそう思っているから、貧民街で働くかもしれない。自分が非常に戦いが好きだから、国際平和のために戦うかもしれない。この上なくむごたらしい殉教、いやらしい経験でも、みずから選んだ結果、あるいは一種の趣味であるかもしれない。
「ある現代作家と家族制度について」(p.161)
たとえば、テレビに映っている異国の人たちに対して、私たちは自分と似通ったところを見出して、彼らに親近感を覚え、彼らを愛するようになることもあろう。
このように、遠い人を愛することはたやすい。
けれど、「隣人」は違う。
どんなに自分と似通ったところがあったとしても、それよりなにより「自分と異なる部分」が絶えず眼前に突きつけられるので、それがわれわれの神経を刺激し、腹をムカムカさせるのである。
だから、近い人を愛することは難しい。
チェスタトンは次のように述べている。
しかしわれわれは隣人を、彼がそこにいるということだけで愛さねばならないーー理由がはるかに緊急なら、実践もはるかに真剣である。隣人は人類の見本として現実にわれわれに与えられたものなのだ。彼は誰であってもよい。まさしくその故に彼は万人である。彼は象徴である、偶然にそこにあるが故に。
「ある現代作家と家族制度について」(p.161−162)
「人類愛」は、確かに世の中を明るくするスバラシイものであるが、それよりも大切なものがある。
それこそが「隣人愛」であり、そして「家族」こそがそれを実践する代表的な場所なのである。
私たちは、「共感に基づいたグループ」のなかに閉じこもって「平和と楽しさと一致」を味わうよりも(それもいいことだが)、「家族」という「自分と異なる人びと」とも向き合い、彼らに思いやりを示す努力をしていかなければならない。
これが、本章を通してチェスタトンが言いたかったことだと思う。
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