ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「使徒的勧告 福音の喜び」教皇フランシスコ著 はこんな本だった

【ザックリとしたまとめ】「霊的世俗性」というものがある。これに憑かれた人たちは、ファリサイ派の人たちのように、神からの誉れよりも、世間からの誉れの方を求めるようになる。その結果、人の目につきやすい「外見」を絶対視するようになり、人の目につかない「神への愛」は軽視されるようになるのだ。

使徒的勧告 福音の喜び」教皇フランシスコ著 カトリック中央協議会 2014年6月20日初版 ADHORTATIO APOSTOLICA “EVANGELII GAUDIUM”2013.11.24

初めに

 この勧告で取り扱っているのは「福音宣教」。
 つまり、「もっと積極的に宣教していきましょう!」ってなことが語られている書なのだ。

 でもって、今回は、この書の中にある「霊的世俗性」というもの、この一点に絞ってまとめていこうと思う。
 「グノーシス主義」や「新ペラギウス主義」といった個人的に気になっているものが語られているからだ。

霊的な世俗性、グノーシス主義、新ペラギウス主義

 そう、問題は「霊的世俗性」というものなのだ。

 本書では、この「霊的世俗性」について、次のように語られている。

霊的な世俗性は、教会への愛および宗教性の外観を装います。それは、主の栄光ではなく、人間の栄光と個人の幸せを求めます。それゆえ、主はファリサイ派の人を戒めました。「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることが出来ようか」(ヨハネ5・44)(93)
「第二章 危機に直面する共同体」(p.87−88)

 つまりは、「ファリサイ派っぽい」ってことなのだ。
 つまり、「霊的世俗性」に憑かれた人たちってのは、まるで「ファリサイ派」のように、「外見」をキレイに「装う」ことによって、「世間」からの「誉れ」を受けようとしている人たち、ってことだ。

 で、「相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしない」態度の「源泉」となっているのが、「グノーシス主義」と「新ペラギウス主義」なのである。

この霊的な世俗性は、とりわけ、深く関連し合う二つの源泉からわき出ています。
その一つは、主観主義にとらわれた信仰であるグノーシス主義の魅惑です。これは、特定の経験、一連の論証、知解のみに関心をもっています。それは、慰めと光を与えると考えられるものですが、主体は自らの理性と感情の内在に閉ざされたままなのです。
他の一つは、自己完結的でプロメテウス的な新ペラギウス主義です。この人々は、自分の力だけに信を置き、定められた法規を遵守していること、またカトリックの過去に特有の様式にかたくなに忠実であることで、他者よりも自己の力と感情にのみ信を置いているのです。
教義と規範の仮定的確信が、自己陶酔的で権威的なエリート主義を生じさせます。それによって、福音をのべ伝える代わりに他者を分析し格付けし、恵みへと導ことにではなく、人を管理すること力を費やします
どちらの場合も、イエス・キリストに対しても他者に対しても、真の関心を払ってはいません。人間中心的な内在論の表出なのです。このようなキリスト教のゆがめられた形態が、福音の真の活力を生み出すとは想像もできません。(94)
「第二章 危機に直面する共同体」(p.88−89)

 「神は細部に宿る」という言葉がある。
 カトリック教会は、その歴史において、その「細部」にまで神の息吹を行き渡らせようと、それこそ「額に汗して」努力してきた。
 つまり、目に見えない「信仰」という「核」から発して、目に見える「外見」という「細部」にまで神の息吹を行き渡らせようとしてきたのである(例えば、荘厳な「教会堂」のように)。

 で、「世間」的な「誉れ」の対象になりやすいのは、この目に見える「細部」の方なのだ。
 もちろん、人の目につく「細部」、細かいすみずみにまで気を配るのはいいことに違いない。

 けれども、この「霊的世俗性」に憑かれた人たちってのは、この人の目につく「細部」を「絶対視」したり、人に「押し付け」たりする人たちなのである。

教会の歴史は、犠牲、希望、日々の闘い、いのちを費やしてまで行う奉仕、つらい労働における粘り強さの歴史として、栄光に満ちています。どの仕事も「額に汗して」行われたのです。それに引き替え、わたしたちは、外部から指示を与える霊的指導者、司牧の専門家のように、うぬぼれて「こうすべきだ」と、いつまでも無駄に話しているのですーーそれは「すべきイズム」という罪ですーー。わたしたちは際限なくその想像を肥大させ、信じる民の現実の苦しみとの接点を失っているのです。(96)
「第二章 危機に直面する共同体」(p.90−91)

 確かに、「細部」を「絶対視」してしまっては、「こうすべきだ」の「すべきイズム」という罪に陥らざるを得ないだろう。これはファリサイ派の人たちが陥った罪である。
 けれども、私たちは、ファリサイ派のように、「細部」を守ろうとするよりも、信仰という「核」を発展させることに気を使うべきではなかろうか。


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