「異端者の群れ」G・K・チェスタトン著 はこんな本だった【その5】「ウェルズ氏と巨人」
【ザックリとしたまとめ】今回俎上にのせられているのは「タイムマシン」等でお馴染みのH・G・ウェルズ氏。本章では、まずキリスト教における「謙遜」が貪欲なものであることが述べられている。「謙遜」と「貪欲」、この二つのものは水と油のように合わなさそうなものだが、どう言うことか。また、ウェルズ氏が夢見る「ユートピア」の到来についての批判が載せられている。それによれば、ウェルズ氏の欠点は、人間の「内面」という、いちばん厄介な問題を手軽に克服できるものと決めておいて、どうすれば「外面」がキレイに輝くかを力説している点にあるという。
- 作者:G.K.チェスタトン
- 発売日: 1975/01/01
- メディア: 単行本
「五 ウェルズ氏と巨人」
ウェルズ氏について
H・G・ウェルズは、みなさまご存知のようにイギリスの作家である。
これまたご存知のように、彼は「タイムマシン」や「透明人間」、「宇宙戦争」等々、数ある有名なSF作品を著している。
そして、このウェルズ氏も、前回のバーナード・ショー氏と並んで、チェスタトンの批評ではおなじみの人物である。
キリスト教の謙遜は貪欲!
前回の記事でも書いたことであるが、キリスト教における「謙遜」とは、「理想」を天に返し、この「理想」を前にして人が膝をかがめることである。
また、この「謙遜」は、天にある「理想」を信頼し、それに向かっていくものでもある。
それも「貪欲」に向かっていくものである。
このキリスト教の「貪欲」な「謙遜」について、チェスタトンは次のように述べている。
キリスト教徒の謙遜とキリスト教徒の強欲の間に意識的な矛盾がないのは、恋人の謙遜と恋人の強欲の間に矛盾がないのとひとしい。人びとは自分がふさわしくないと思う者にこそ、ヘラクレスそこのけの努力を惜しまない。恋におちた男の誰ひとりとして、どんな苦労をしようとも目ざす相手を手に入れる、と言わない者はなかった。そして、恋におちた男の誰ひとりとして、自分は目ざす相手を手に入れるに値しない、と言わなかった者もまたなかった。
「ウェルズ氏と巨人」(p.54−55)
一般的な「謙遜」のイメージは、自分の「無価値さ」を自覚したなら、ちゃんと身を引く、コレであろう。
しかし、キリスト教の「謙遜」のイメージはこれとは異なる。
彼らは、自分の「無価値さ」を自覚しつつも、身を引くことなく、逆に積極的に求めていくのである。
なぜ、このようなことが起こるのか?
それは、キリスト教の「謙遜」が「信頼」というものに深く結びついているからだと言えよう。
彼らの美徳は、天にある「理想」を、天にある「善」を、つまりは「神」を「信頼」することにある。
そして、その神が「積極的に求めてね❤️」と言っているのだ。
であればこそ、「自分は神の愛に値しない」と感じれば感じるほど、彼らは遠くに感じられる「神」に対して積極的にアプローチしていかなければならない。
そしてそれこそが、彼らの「信頼」の現れであり「謙遜」の発露なのだ。
逆に、身を引いてしまい、アプローチすることをやめてしまっては、それは、神への「不信」を意味することになろう。
義人
ワタクシは、ここんところ、ドストエフスキーの『罪と罰』を読み直しているのだが、その中に今回の記事の参考になるような場面があったので、チョット長いが引用してみる。
その場面とは、ラズミーヒンが「社会主義者」との間で起こった論争のことを、知人に語って聞かせている場面である。
「いっさい認めないんだよ!」ラズミーヒンがむきになってさえぎった。「でたらめなもんか!……やつらのパンフレットを見せてやるよ。なんでもかんでも、「環境にむしばまれた」せいでね、それしかないんだ! おきまりの殺し文句さ! で、そこからただちに、社会が正常に組織されるなら、いっさいの犯罪は消滅する、なぜなら抗議すべきものがなくなり、瞬時にして万人が義人になるから、とくるんだな。人間の本性はそっちのけだ、人間の本性なんかのけものにされて、ものの数に入れてもらえないんだな!
ドストエフスキー『罪と罰(中)』江川卓訳(岩波)(p.136)
この「社会主義者」の思想、つまり「正常に組織された社会」によって「万人が義人になる」という思想が、ウェールズ氏の「ユートピア観」に似ていると思った。
ウェルズ氏や「社会主義者」は、〈劣悪〉な環境や教育、社会制度の所為で人が「悪事に手を染める」ようになるのだとしている。
だから、〈理想的〉な環境や教育、社会制度を実現しさえすれば、「万人が義人になる」という考えを持つ。
つまり、彼らは、人間の「外側」さえ整えられれば、人間は「義人」になる、としているのだ。
けれども、そうした「外側」重視の姿勢を、ラズミーヒンは「人間の本性なんかそっちのけだ」と言って批判しているのである。
つまり、ラズミーヒン(チェスタトンも)は、人間は「外側」を整えるだけでは「義人」にはなれず、まず何より「内側」のケアが大事なのだという立場にある。
そして、この「外側」から造り出された「義人」こそが、タイトルの「ウェルズ氏と巨人」の「巨人」なのである。
ウェルズ氏と巨人
ウェルズ氏らが夢見ている「巨人」、この完璧超人は「内側」がオロソカである。
なぜなら、ウェルズ氏らは、人間の「内側」の問題を「すぐに解決可能なもの」として軽く見ているからである。
けれども、この「内側」の問題こそ、「人間のいちばん厄介な問題」なのだ、とチェスタトンは言うのである。
すべてのユートピアの弱点は、人間のいちばん厄介な問題を克服できるものと決めておいて、次にもっと小さな問題をどう克服するか、ご念の入った説明をしているところにある。
まず人間は自分の分け前以上を要求しないことを前提にしておいて、さて、その分け前を自動車で運ぶか気球で運ぶか、まこと才気あふれる説明をしておいでになる。
「ウェルズ氏と巨人」(p.62)
ウェルズ氏の「巨人」は、「内側」が空疎で、それゆえ「欲望」も空疎なので、確かに「悪事に手を染める」ことはないのかもしれない。
けれども、チェスタトンは言うのである。
人間が「義人」になるためには、人間の「内側」に宿る「勇敢さ」が必要である、と。
強い者は勇敢ではありえない。ただ弱い者のみが勇敢になりうる。しかもまた、事実上、勇敢になりうる者のみが、不安動揺に処して間違いなくその強さを期待されうるのである。
「ウェルズ氏と巨人」(p.68)
「内側」が空疎な「巨人」には、「欲望」はないのかもしれないが、同時に「勇敢さ」もない。
この辺り、こうまとめられるだろう。
チェスタトンの思う「義人」は、人間の「内側」、特に「勇敢さ」に基づくもので、彼は一歩一歩「神(善)」に向かって進んでゆくタイプの「いい人」である、と。
一方で、ウェルズ氏が造り出そうとしている「義人」は、人間の「外側」、特に「知識」に基づくもので、彼は「悪事に手を染めない」という意味での「いい人」である、と。
……こうしたところを見ていると、どうやらウェルズ氏や「社会主義者」も、イプセン(第一回で取り上げた)のように、何が「善」であるかに対しては無頓着なように思われる。
彼らは、捨て去るべき社会の害悪を数多く発見するのだが、向かうべき善は何一つ持たないのだ。
非情な義人
ウェルズ氏の「巨人」、この完璧超人は、われわれ一般人を遥かに凌駕するくらいに「強い」存在である。
けれど、その力は「非情」なものである。
足手まといになる「情」などないから、そのぶん「強い」のだと言ってもよい。
けれども、それは本当の「強さ」ではない。
それは「情」のない強さ、「勇敢さ」を欠いた強さ、つまり「むごさ」にすぎない。
偉大な人とは、強いためにほかの人ほど情がない人ではない。強いからいっそう情も深いのである。
「ウェルズ氏と巨人」(p.70)
本当の「義人」たるに必要なのは、「知識」と「非情さ(強さ)」ではなく、「勇敢さ」と「情(弱さ)」ではなかろうか。
……とは言ってみたものの、ワタクシも、この「情」なるものが、自身の安心安定の邪魔になるもののように感じられることが多々ある。
ワタクシは、ホントに弱いので、そんな自分にホトホト参ってしまうことが多いのだ。
そんな時、ワタクシは「強くなりたい」と切実に願うのである。
それはつまり「情」を捨て去って「非情」になることを意味している。
『「情」なんかに流されるからこそ、私は周りの人々に利用され、大切にしているものを奪われるんだ!』
『だから、安心安定した暮らしを手に入れるために「非情」になって、利用される側から利用する側に、奪われる側から奪う側に移らなければならないんだ!』
ホント苦しい時には、こんなことが頭をかすめる。
そして、この「情」を余計なものとして捨て去ることは、キリスト教的に表現すれば「神を捨てること」と同じだと言えるだろう。
この意味において「無神論」と呼べるものは、キリスト教界だけの話ではない。
で、ワタクシは「情」を捨て去って「非情」になろうとしたが、それは正しいことなのだろうか。
「情」に流されてしまうのは、私に「勇敢さ」が欠けていたからではないのか?
「情」に流されてしまうのは、向かうべき「善」がなかったからではないのか?
新約聖書には、次のような文言がある。
わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。(マタイ10:37)
この文言は「父母を見捨てること」を強要する、「非情」な言葉のようにように思えるが、そうではないのだと思う。
この文言にある「わたし」とは「神(善)」のこと。
つまり、私たちは、まず何より先に「善」に向かわなければならないのだ。
「善」を信頼し、それに向かっていくことこそがキリスト教の「謙遜」であり、それによって私たちの「情」は「生きた魂(byラズミーヒン)」になるのである。
そして、この「生きた魂」によって、父や母、息子や娘を正しく愛することができるのだ。
この「善」より先に、「父や母」の方を信頼し、それに向かっていってしまっては、私たちの「情」は、ただ流されるだけのものになってしまう。
そして、それを止めるには「情」を捨て去るしか無くなってしまうのだ。
であればこそ、私たちの「情」は向かうべきところを必要とする。
それも「父や母」のような〈目に見える存在〉ではなく、「善」という〈目に見えない存在を必要〉とするのである。
そして、その「善」への旅路において、人は「勇敢さ」を身につけていくのだと思う。
そして、この「勇敢さ」と「情(弱さ)」が合わさった時に、私たちは情の深い「義人」となれるのではなかろうか。
以上、おしまい!
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