「正統とは何か」G.K.チェスタトン著 はこんな本だった
「正統」ほど危険に満ち、興奮に満ちたものはないということ。
「物質主義」は、人類を宗教から解放したが、別の宿命論に結びつけたということ。
- 作者: ギルバート・キース・チェスタトン,安西徹雄
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 2019/04/20
- メディア: 単行本
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(注:今回は、リンク先の新版ではなく、チェスタトン著作集1の旧版を使用した。内容にさほど違いは思うが、ページ番号などはずれていると思うので、あしからず)
「正統」とは、エキサイティングなものである。
まず、チェスタトンは「正統」について、次のように述べている。
正統は何かしら鈍重で、単調で、安全なものだという俗信がある。こういう愚かな言説に陥ってきた人は少なくない。
だが実は、正統ほど危険に満ち、興奮に満ちたものはほかにかつてあったためしがない。
正統とは正気であった。そして正気であることは、狂気であることよりもはるかにドラマチックなものである。(p.180)
一般には「異端」のほうが、人々を魅了するエキサイティングなものであると捉えられているが、チェスタトンはまったく逆で、「正統」のほうがエキサイティングだと力強く断言するのである。
神秘、それは「神の笑い声」
福音書のなかのイエス・キリストは、「あけっぴろげな人」であった。
彼は、人前でも涙をかくすこともなく泣き、また神殿では怒りをかくすこともなく暴れ、私たちに「かくしごと」をしなかった......。
「しかし」とチェスタトンは言う。
彼が山に登って祈った時、彼には、あらゆる人間からかくしているものが何かしらあったのだ。(p.296)
では、イエス・キリストのかくしごと、神様の秘密、いわゆる「神秘」とはいったい何だというのだろうか......。
チェスタトンは言う。
神がこの地上を歩み給うた時、神がわれわれ人間に見せるにはあまりに大きすぎるものが、たしかに何かしら一つあったのである。そして私は時々考えるのだ−−それは神の笑いではなかったのかと。(p.296)
チェスタトンにとっての「神秘」とは、「神の笑い声」であり、「あけっぴろげな明るさ」なのである。
それも「人知をはるかに超えた明るさ」なのである。
それは、私たちが「神秘」と聞いて思い浮かべるような、「ほの暗くておそろしげなもの」ではないのである。
物質主義の宿命論
チェスタトンが生きた20世紀初頭のイギリス、その知的世界を支配していたのは「物質主義」であった。
当時の物質主義には、「宗教の教義から人びとを自由にする」という大義名分があった。
人々は、鈍重で古くさくなった宗教、及びその教義から解放されたがっていたのである。
そして、「科学的な法則に従って人類は進化するのだ」と喝破した物質主義の台頭によって、ついに人々は宗教から解放されたのである。
しかしながら、この解放者であるはずの物質主義が、かえって人々を「新しい宿命論」に陥れていることをチェスタトンは指摘するのである。
チェスタトンは言う。
最初見た時には、現代世界にはカルヴィニズムの現代版で堅固に武装しているように私には思えた。世界が今ある姿は全き必然によるのだという理論で十二分に鎧われていると見えたのだ。(p.97)
もしも人間が「法則」に従ってしか生きられないのだとすれば、もしも人間が善人となるも犯罪者となるも「必然」でしかないのだとしたら、それはカルヴァンの予定説と何ら変わることのない宿命論、「物質主義的な宿命論」にすぎないとチェスタトンは言うのである。
【私論】「物質主義」と「器」
科学の進歩によって、次々と解明されていく、世界の成り立ちの物語は十分に魅力的な話である。
しかしながら、物質主義的な世界観は、物質のことだけを語り、それで満足してしまっているようである。
そして、チェスタトンは、物質主義者の語る物語では満足しないのである。
おそらく物質主義の物語に描かれているのは、「必然」のみで、チェスタトンが好きな「神秘」がちっとも描かれていなかったからであろう。
物質主義は、「神秘」を語れないのである。
物質主義は、物質のこと、「器」のことしか語れない。
そして、物質主義者は、「器」に注がれるものを忘れがちである。
この世界は、「器」だけ、物質だけで成り立っているのではなく、そこに注がれるものと合わさって初めて意味をなす、というのがチェスタトンの立場であろう。
「器」だけで成り立つ世界が「物質主義の国」だとしたら、「器」と「注がれるもの」によって成り立つ世界が「おとぎの国」なのである。
チェスタトンの「おとぎの国」
「おとぎの国」では、「物質主義の国」では誰も信じていないもの、いわゆる「神秘」が、当たり前のように受け入れられているという。
「おとぎの国」は、「神秘」が注ぎ込まれている世界なのである。
チェスタトンは、「神秘」の効用について次のように述べている。少々ながいが引用しよう。
現実の人間の歴史を通じて、人間を正気に保ってきたものは何であるのか。神秘主義なのである。
心に神秘を持っているかぎり、人間は健康であることができる。神秘を破壊する時、すなわち狂気が創られる。
平常平凡な人間がいつでも正気であったのは、平常平凡な人間がいつでも神秘家であったためである。薄明の存在の余地を認めたからである。一方の足を大地に置き、一方の足をおとぎの国に置いてきたからである。
平常平凡な人間は、いつでも神々を疑う自由を残してきた。しかし、今日の不可知論者とちがって、同時に神々を信ずる自由も残してきた。
大事なのは真実であって、論理の首尾一貫性は二の次だったのである。かりに真実が二つ存在し、お互いに矛盾するように思えた場合でも、矛盾もひっくるめて二つの真実をそのまま受け入れてきたのである。
人間には目が二つある。二つの目で見る時はじめて物が立体に見える。それと同じことで、精神的にも、平常人の視覚は立体的なのだ。二つのちがった物の姿が同時に見えていて、それでそれだけよけいに物がよく見えるのだ。(p.39-40)
チェスタトンは言う。「人が正気であるためには、神秘を受け入れなければならない」と。
そして、「神秘」つまりは「神の笑い声」を受け入れた生き方のことを「正統」と呼ぶのだろう。
「おとぎの国」は楽しき我が家なり
本書の最後のほうで、チェスタトンは次のように述べている。
こうして、単に偶然に見つけた道徳的規範としてキリスト教を受け入れるのではなくて、母としてキリスト教を受け入れたその時以来、私にとってヨーロッパと全世界が、もう一度子供のころのあの庭のごときものと目に映るようになってきたのだ。(p.287)
このようにキリスト教を受け入れるとは、「特定の価値観」を持つということではない。
それは、「本来の我が家」に住むということなのである。
「おとぎの国」とは、大きな笑い声の父親がいる家のことである。あけっぴろげで明るい我が家なのである。
思春期がきて、父親がウザくなって、一度遠くへ離れたとしても、いつでも帰ることのできる我が家なのである。
この世はまさに私の父の家であるからだ。私はかつての私の出発点に今もう一度帰って来たのだ。そしてこれこそ正しい帰着点なのだ。私はあらゆる良き哲学の、少なくともその門に入ることができた。私は第二の子供時代に帰って来たのである。(p.290)