ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「使徒的勧告 喜びに喜べ 現代世界における聖性」教皇フランシスコ著 を買った

【ザックリとしたまとめ】本来の「聖性」というのは、私たちにとって身近なものなのである。だから聖人のマネをしようとして疲弊してしまってはいけないのだ。また「グノーシス主義」や「ペラギウス主義」といった思想の流入にも気をつけなければならないのである。

使徒的勧告 喜びに喜べ 現代世界における聖性」教皇フランシスコ著 カトリック中央協議会 2018年10月5日初版 ADHORTATIO APOSTOLICA “GAUDETE ET EXSULTATE”2018.3.19

身近な「聖性」

 日常生活でなにかとあわただしい私たち現代人も、「聖性」ってゆーものを迷うことなくドンドンガンガン目指していきましょう、ってなことが述べられている使徒的勧告よ。

 ちなみに「聖性」ってゆーものは、「キリストに似た者になること」を指しているんだゾ。

 でもね、私たち一般人は、この「聖性」という言葉を聞くと、すぐさま聖人とか殉教者といったような「徳の高い偉〜い人」のことばかりを思い起こしてしまって、それ故に「自分とは関係のないもの」と断じがちなのよね。

 そんな「奥ゆかしい」私たち、「聖性」を自分から遠いところに置こうとする私たちに、教皇は本勧告を通して、次のようなことを伝えようとしているの。

わたしたちは聖性が、日常のもろもろから離れて、祈りに多くの時間を割くことのできる人だけのものだと思ってしまいがちです。そうではありません。それぞれが置かれている場で、日常の雑務を通して、愛をもって生き、自分に固有のあかしを示すことで聖なる者となるよう、わたしたち皆が呼ばれているのです。(14)
「第一章 聖性への招き」(p.18)

 本勧告において教皇は、本来の「聖性」とは、わたしたちの「身近」にあるものだ、ということを言わんとしているのよね。

 「身近な聖性」、それは例えば、次のような「日常」の場面に見出されるものなんだって。

あふれるほどの愛を注いで子育てにあたる親、家族の生活の糧のために働く人、笑顔を絶やさない、病にある人や高齢の修道者です。日々歩み続けるこの根気の道に、わたしは闘う教会の聖性を見ます。それは大抵、わたしたちのすぐ近くで神の現存を映し出す「身近な」聖性です。(7)
「第一章 聖性への招き」(p.14)

 ってな具合に、偉くもなんともないフツーの私たちであっても、その「日常」を、心を込めて丁寧に暮らしてさえいれば「聖性」は十分に可能だ、ってゆーことなのよね。

 でもって、この「身近な聖性」を日々育んでいく上で、気をつけなければならない注意点があって、それは「イメージに自分を当て嵌めようとしない」ということなの。

「各自自分の道において」、そう公会議はいいます。ですから、倣うのは到底無理だと思える聖性の手本を思い浮かべて、やる気を失ってはなりません。支えとやる気を与えてくださるあかし人もいますが、だからといってその人を丸写ししようとするのは違います。それは、主が与えてくださった各自それぞれの異なる道から、わたしたちを引き離しかねないからです。大切なのは、各信者が自分自身の道を識別し、神が自分に用意してくださった自分だけのもの、その自分のよさを発揮することであって(一コリント12・7参照)、求められていないものをまねようとして疲弊することではありません。(11)
「第一章 聖性への招き」(p.16−17)

 これはとっても重要な指摘だと思うのよね。

 私たち(特にア・タ・シ♪)は、何かことを成そうとする時、「イメージ先行」になりがちなのよ。
 始めに「イメージ」を思い浮かべて、次にそれを「丸写し」しようとする、このパターン!
 それ故に、「聖性を目指せっ!」って言われれば、思い浮かべた「清浄なイメージ」に、「現実の自分」をムリヤリ合わせようとしがちで、それに四苦八苦しがち、そして挫折しがちで、挙句の果てに「聖性」っゆーものを遠ざけてしまいがちになるのよね。

 けれども、本勧告が勧めている「身近な聖性」とは、そんなムリクリなものじゃあなくって、自分の周りの人たちの幸福に少しでも貢献できるように、私たちの「日常」を、心を込めて丁寧に暮らすことを指しているのヨ。

グノーシス主義」と「ペラギウス主義」

 そーなってくると、さっきの「イメージ先行」のやり口ってゆーのは、グノーシス主義」とか「ペラギウス主義」とか呼ばれているものに近い、と言えるのかもしれないわ。

 この「グノーシス主義」と「ペラギウス主義」については、本勧告では次のように語られているんだぞ。

ここでは、わたしたちの道を誤らせうる、聖性の二つの贋作に注意を促したいと思います。それはグノーシス主義とペラギウス主義です。これらはキリスト教誕生後の最初の数世紀に登場した二つの異端で、現在も依然として警戒すべきものです。現代においてもなお、多くのキリスト者の心は、おそらくは無自覚に、こうした欺きの理念に惑わされています。(35)
「第二章 聖性の狡猾な二つの敵」(p.31)

 では、この二つの異端ってのは一体なんぞやと言えば、簡単にまとまるなら、「グノーシス主義」は、人間の「知識」を過大視した思想、「ペラギウス主義」は人間の「意志」を過大視した思想であると言えるのかしら。
 彼らは、人が神に愛されるためには、「知識」や「意志」が必須と考えているのよね。
 キリスト教界の「学歴厨」とか「意識高い系」といった感じかしらね。

 けれどもね、「知識」や「意志」といったものは、世俗社会における「財産」や「名誉」とかいったものと同じように、しょせん「うたかた」のものに過ぎないのよね。

 これらの「自分の有するもの」は、私たちの「実生活」では役立つものなのかもしれないワ。
 けれども、「聖性」の道、いわゆる「霊的生活」においては、あんまし役立つものとはいえないの。

 だって、「聖性」の道において私たちの伴侶となるのは、「知識」とかいった「自分の有するもの」じゃあなくって、「謙虚さ」ダ・カ・ラ♪
 そう、逆に「自分の有するもの」を手放してしまうような「謙虚さ」だからなのよ。

 つまるところ、わたしたちには限界があるということを、真摯に、苦渋と祈りをもって認めないのであれば、恵みはわたしたちの中でうまく働きません。そこには、成長への誠実で、真の道を補完する、最善を尽くすということへと気持ちを向かわせる余地がないからです。恵みは、わたしたちの自然本性を前提にしているというまさにその理由から、わたしたちを一挙に超人にすることはありません。それを期待することは、いかにも自信過剰というものです。(50)
「第二章 聖性の狡猾な二つの敵」(p.39−40)

 私たちは「自分の有するもの」を手放して「謙虚」になった時にこそ、「現実の自分」と向き合うことができるのよね。
 だって、「現実の自分」ってのは、「知識」でも「意志」でも「財産」でも「名誉」でもないんだからね。
 でもって、この「現実の自分」だけが「聖性」の道を歩んでいけるのよね。

 先の「イメージ先行」のやり口だって、「清浄なイメージ」に「現実の自分」をムリヤリ合わせることだから、「聖性」の道を歩んでいるのは言えないのよ。 

恵みは歴史の中で作用し、普通漸進的に、わたしたちを捉え、変えていきます。(50)
「第二章 聖性の狡猾な二つの敵」(p.40)

 ってな具合に、「聖性」の道ってのは、「現実の自分」、フツーの私たちが、少しずつ少しずつ、地道に歩いてゆくことなの。
 そう、けっこう「じみ〜」なもんなのよね。

 だからね、「イメージ先行」の私たち、「現実の自分」を損なうような「聖性」の道を歩んでしまう私たち、「自分の有するもの」にこだわってしまう私たち、そんな現代の私たちは、自分でも知らないうちに「グノーシス主義」や「ペラギウス主義」ってゆーものに染まっちゃっているのかもしれないわ。


■■■■■【関連する記事】■■■■■
グノーシス主義」についてはこちらの記事でも扱っているわ
uselessasusual.hatenablog.com

以下は、その他の回勅や使徒的勧告のまとめ記事よ
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