ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「使徒的勧告 愛するアマゾン」教皇フランシスコ著 を買った

【ザックリとしたまとめ】お題は南米の「アマゾン」。今、アマゾンは世界の資本によって蹂躙され疎外されているが、それをゆるしていてはならないということ。またインカルチュレーションにあっては、アマゾンに残っている信仰形態を即偶像礼拝として退けるのではなく、そこから学び、何かしらを拾い上げる努力が必要だということ。

使徒的勧告 愛するアマゾン」教皇フランシスコ著 カトリック中央協議会 2021年2月2日初版 ADHORTATIO APOSTOLICA POST-SYNODALIS “QUERIDA AMAZONIA”2020.2.2

はじめに

 この勧告のお題は、南米にありまする密林の「アマゾン」。
 日本に住む私たちからしてみたら、地球の反対側なんぞにある「アマゾン」なんて、遠い遠い世界の縁のないもののように感じられよう。

 けれどもね、本勧告を読んだワタクシは、本勧告から色々と学ぶべきところが多かったの。
 特に「疎外」についてと「インカルチュレーション」について。

 今回は、その辺りのことを記事としてまとめていこうと思う。

疎外

 「アマゾン」に住む先住民族は、世界中の資本によって蹂躙されているという。

権力格差は著しく、勝者はすべてを手にし続けるのに、弱者は自身を守る手だてがないのです。「貧しい国はいつまでも貧しいままなのに、富める国はますます裕福になっているのです」。(13)
「第一章 社会の夢」(p.15)

 「アマゾン」の先住民族は、世界から「疎外」されているのである。
 そして、この弱者に対する容赦のない「疎外」が〈当たり前のこと〉として、世界中で受け入れられているのである。

 前々回に、当ブログで取り上げた『回勅ラウダート・シ』の中で、教皇「あらゆるものはつながっている」ってなことを繰り返し述べていた(確かアニメ『プラネテス』の中でも主人公のハチマキが似たようなことを言っていたようなキガスル)。

 「あらゆるものはつながっている」ーーだから、教皇は「疎外」されたままの国や地域があってはならない、と主張するのである。

「課題は、連帯のグローバル化だれ一人疎外されることのないグローバル化を確保することです」。持続可能な畜産業と農業、環境汚染のないエネルギー、環境や文化の破壊を伴わない尊厳ある就労先といった、他の選択肢も求められます。同時に、先住民族や窮民に対する、その能力を伸ばし、力を発揮するにふさわしい教育の保障が必要です。(17)
「第一章 社会の夢」(p.18)

 キリスト教的な考え方では、私たちを取り巻くこの世界は、キリストを「頭」とした「一つの体」、として表現されてる。
 つまり、キリストに「あらゆるものはつながっている」ということだ。

 でもって、こうしたキリスト教的な考え方から、「疎外」があってはならない、という教皇の主張も生まれてくるのだろう。
 なぜなら、弱者を傷つけることは、「一つの体」としてつながっているはずの「私たち自身」を傷つけることであり、同時に私たちとつながっている「キリスト」を傷つけることだからである。

 それ故に私たちは、同じ体の一部分として、弱者を「尊重」してゆかねばならないのである。

対話では、貧しい人、疎外された人、排除された人を守るために優遇する特権を与えるだけでなく、彼らを、主体的に牽引する主役として尊重しなければなりません。つまり、相手をありのままに認め、「他者として」、その人の感性、その人ならではの選択、生き方、働き方もろともに尊重することです。そうでなければ、結果は必ずや「少数の人による少数の人のための計画」となるでしょう。あるいは「机上の合意や、少数の幸福な者のためのはかない平和」です。(27)
「第一章 社会の夢」(p.24−25)

 そして、弱者に対する「疎外」は、アマゾンに代表される「地球上」だけの話ではなく、私たち「個々人」の内にも当てはまるものであろう。

 地球における「弱者」、私たちが私たちの価値基準から見て「価値のないもの」と断定するもの。それは私たちの内にある「弱点」であると言えよう。
 そして、私たちの心情には、この「弱点」を見下し、それらを排除、「疎外」してしまおうという衝動がひそんでいる。

 けれども、私たちは「弱点」を含めての「一つの体」なのである。
 それが一見「無価値」に見えるものであったとしても、である。

 そして、この「弱点」を見下し、それを「疎外」することは、私が私でなくなること意味する。
 「あらゆるものはつながっている」の教えから導き出される「弱点」や「弱者」に対する措置は、「疎外」ではなく「ぬくもり」であろう。

インカルチュレーション

 キリスト教を世界に広めるため、そしてさらに発展させるために、既存のキリスト教を「現地」の文化や伝統に合わせること、それが「インカルチュレーション」である。

 でもって、本勧告では、主に「アマゾン」におけるインカルチュレーションが語られているのであるが、その教えは私たちの国「日本」においても結構有効なのではないか、とワタクシ的には感じられた。
 つまり、今のキリスト教を、もっとよく日本の習俗に適応させることができるのではないか、と。

 私たち日本のキリスト者は、ややもすると、神道などの日本の他教を「偶像崇拝」と結びつけがちである。
 そんな私たちに向かって本回勅は次のようなことを語りかけるのである。

先住民のシンボルを、即偶像崇拝とみなすのではなく、何らかの方法で取り入れることは可能です。霊的な意味がふんだんに含まれた神話は活用されうるもので、すべて異教の誤りだとみなされるわけではありません。いくつかの宗教的な祭りには神聖な意味があり、ゆっくりとした浄化や成熟のプロセスが必要ではありますが、再発見と兄弟愛の場となっています。(79)
「第四章 教会の夢」(p.64)

 そして、さらに本勧告では、他教がつちかってきた「信仰表現」を見下すのではなく、そこから何からしらよいものを拾い上げる努力をせよ、と私たちに勧めてくるのである。

インカルチュレーションとは、アマゾンの文化の中にすでに存在しているよいものを見下さずに、それらを拾い上げ、福音の光のもとで、全きところへと導くものです。(66)
「第四章 教会の夢」(p.55)

 確かに、文化と宗教というものは、歴史という長い時間を通過してきているので、表裏一体、分かち難いものになっていると思う。
 であるからして、時間をかけてつちかってきた信仰表現を「偶像崇拝!!」として一刀両断に排斥するのであれば、それはそれをつちかってきた現地の人々を排斥するのと同義なのである。

 だから、「インカルチュレーション」においては、既存のキリスト教に「現地」を合わせようとするよりも、「現地」に合わせることの方が大切なのだという。

このようにして、よその地のモデルのコピーではない、アマゾンの顔をした数々の聖性のあかしが生まれるでしょう。出会いと献身、観想と奉仕、開かれた孤独と共同生活、喜びある節制と正義のための闘い、それらからなる聖性です。この聖性は「各自自分の道において」到達されるものであり、それは、恵みが受肉し、それぞれ異なる特徴をもって輝く場である、民族においても同じです。(77)
「第四章 教会の夢」(p.63)

 この教えは、私たち「個々人」にも当てはまるものであろう。

 信仰生活とは、天の国を目指して旅することであるが、その旅は、みんな同じ道、誰かに決められた道を歩んでいくことではない。
 本勧告がいうように、私たちは「各自自分の道において」旅して行くのであり、その旅路は、誰の真似でもなく、誰にも強制できないものなのである。


以上、おしまい

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