「ポプロールム・プログレシオ −諸民族の進歩推進について−」パウロ六世著 はこんな本だった
【ザックリとしたまとめ】
真の「進歩」とは、「全人的な発展」のことである。
そして、真の「進歩」は、「物質的な発展」だけでは不十分であり、「人間的な発展」をも伴っていなければならない。
そして、この真の「進歩」を果たすには、過度な「自由競争」ではなく、お互いを思いやる「連帯精神」が必要不可欠である。
「諸民族の進歩」Populorum Progressio
この書は、1967年に出されたパウロ六世の手による回勅である。
そして、本回勅は、1960年代当時、「先進諸国」と「発展途上国」との間で広がる一方だった「貧富の差」を是正すべく出されたものである。
また、真の「進歩」とは何かを取り扱ったものでもある。
本書のまえがきを書いているアンセルモ・マタイス氏によれば、本回勅が発行された時「この回勅は資本主義を批判しているのでケシカラン」というお言葉を頂いたそうである。
けれども、本回勅が批判しているのは、現代社会における「過度な資本主義」であり、教会が「マルクシズム」に傾いているということではない。
逆に本回勅は、この「マルクシズム」に対する教会の解答としての意味をも持っているのである。
本回勅は、次のように始まる。
諸民族の進歩は、教会にとってきわめて重大な関心事であります。特に、飢えや貧困、風土病や無学から逃れようと努めている民族、文明のもたらす成果にもっとあずかり、自分たちの人間的資質をもっと積極的に発揮させようと努力している民族、さらに固い決意をもって自国のより完全な発展のためにまい進している民族の進歩について、教会は深い関心をもっています。
「序説」(p.2)
この出だしの言葉「諸民族の進歩(Populorum Progressio)」が、そのままタイトルになっている。
では、教会が望むような「進歩」とは一体どのようなものなのだろうか。
第一部 人間の調和ある進歩のために
広がるばかりの「貧富の差」。
これが現代社会の問題である。
先進諸国が謳歌する「進歩」から、発展途上国は取り残されており、その格差は広がる一方である。
そして、発展途上国は国際貿易においても、先進国が強いる「自由競争」に競り勝つ競争力を欠いているので、途上国は「進歩」を望みながらも、「進歩」から取り残されていく一方なのである。
このような不均衡をもたらす「自由競争」については第二部のまとめの方で扱うが、ここでは教会が考える真の「進歩」とは何かについてまとめていこうと思う。
一般に「進歩」というと「物質的および経済的な発展」のことが頭に思い浮かぶことだろう。
手紙から電報へ、電報から電話へ、電話からケイタイへ、ケイタイからスマホへ。
このような物質的な「進歩」によって、私たちの生活は便利なものになってきており、また豊かになってきている。
けれども、教会が考える「進歩」は、それだけではない。
進歩はたんなる経済的発展に還元されるものではありません。本当の進歩とは全体的なもの、すなわち個人としての人間全体、および人類全体を進歩向上させることであるはずです。
このことについては、ある専門家が適切にも次のように言っています。「われわれは経済的なものを人間性から引き離し、進歩をそれがくり込まれている文明と分離することに賛成できない。われわれにとって大切なのは人間なのだ。ひとりひとりの人間、その人間の集団、そして人間全体なのだ」と。
「第一部 人間の調和ある進歩のために」(p.17)
本回勅は、途上国を「おいてけぼり」にして、先進諸国だけが独占している「進歩」の現状は、真の「進歩」ではないのだという。
教会が考える真の「進歩」とは、「全人的な発展」、つまり誰も「おいてけぼり」にしないで、人類全体が「進歩」することを指しているのである。
だから、先進諸国は、発展途上国に「援助・協力」を行う使命があるというのである。
そしてまた、先進諸国が「援助・協力」を誠実に行っていくには、先進諸国自身にも他者を思いやるといった「人間性の発展」を果たしていく使命があるのである。
それ故に、真の「進歩」にとって、「人間性の発展」が何よりも重要のものであり、「技術の進歩」や「富の蓄積」といった「物質的および経済的な発展」は二義的なものにすぎないのである。
そして、こうした「価値の順位」は正しく見定められなくてはいけない。
さもないと「物質的な発展」が「絶対的な価値」を持つようになり、結果わたしたちは「利己主義」と「貪欲」に陥り、他者を思いやるという「人間性の発展」は忘れ去られてしまうからである。
本回勅は、次のようなことを述べている。
個人にとても国家にとっても、貪欲にとりつかれているということは、道徳的には進歩していないことを示す何よりもよい証拠です。
「第一部 人間の調和ある進歩のために」(p.22)
「物質的な発展」のために「人間性の発展」を忘れ去ってしまわないためにも、わたしたちは「価値の順位」を正しく見定めなくてはならない。
そして、この「物質的な発展」に「絶対的な価値」を見出しているのが、本回勅が批判している「過度な資本主義」なのである。
この「過度な資本主義」にとっては、利益がすべてであり、彼らは自分の腕にモノを言わせて市場や富を独占し、途上国のような競争力のない諸国を排除してしまうのである。
そして、このような「過度の資本主義」が跋扈する社会にあって、このような状況を「革命的暴動」によって打破しようとする動きも出てくる。
けれども、本回勅はこうした動きについては否定的な態度をとっている。
しかし周知の通り、革命的暴動も、誰の目にも明らかな圧制が長く続いていて、個人の基本的権利がはなはだしく侵され、国家の共通善もあやうくされるほどそこなわれているような場合を除けば、かえって新しい不正義を生み、新しい不均衡と破壊を導入します。誰でも現実の悪とたたかうことによって、いっそう大きな不幸を招いてはなりません。
「第一部 人間の調和ある進歩のために」(p.33)
教会は「革命的暴動」に対しては否定的だが、それは決して不正義に甘んじよということではない。
本回勅は、わたしたちには、不正義に立ち向かい、これを打ち負かし、世界を「改革」をしていく責務がある、というのである。
そして、「過度の資本主義」を打ち負かしつつ、「革命的暴動」を退けつつも、真の「進歩」を果たすためには、公権が個人と中間的諸団体の活動を激励し、刺激し、秩序づけ、補うように計画を立てなければならないという。
こうすることによって、個人の基本的権利の行使を不可能にし、自由を否定するような画一的な集産化、あるいは恣意的な計画化を避けることができるでしょう。
「第一部 人間の調和ある進歩のために」(p.35)
真の「進歩」のためには、後述する「連帯精神」が必須なのである。
「富の蓄積」も、また「技術の進歩」も、それがどんなに素晴らしいものであっても、他者を思いやるという「人間性の発展」を伴わないのであれば、それは悪しき状態へと堕ちていくしかないのである。
経済と技術は、それらが奉仕すべき人間によってはじめて意義あるものとなります。そして人間は自分の行動の主人およびその行動の価値の判断者として、みずから自分の進歩を推し進める者となる度合いに応じて、はじめて真に人間と言えるのです。
「第一部 人間の調和ある進歩のために」(p.36)
真の「進歩」とは、先進諸国と発展途上国が協力しあって、誰も「おいてけぼり」にすることなく、人類全体が発展していくという、「全人的な発展」のことである。
そしてそのためにも、わたしたち一人ひとり、そして人類全体が、自己の「人間性の発展」に責任を持って取り組まなければならないのである。
第二部 人類の連帯的進歩のために
本回勅のテーマの一つは「進歩」、もう一つは「連帯精神」である。
個人のあらゆる次元での進歩は、人類の連帯精神にもとづいた進歩と軌を一にしたものでなければなりません。
「第二部 人類の連帯的進歩のために」(p.51)
そして、この「連帯」による努力によって、わたしたちは「全人的な発展」を果たしていくことになる。
本回勅は、「連帯精神」を欠いた「自由主義的」な商取引だけでは、国際関係を統御できなくなっている、という。
「自由主義的」な商取引は、先進国同士であれば、競争しあうことが励みとなり、よい結果をもたらすことができる。
けれども、この「自由競争」を、発展途上国にまで強いてしまえば、途上国はその餌食になってしまうのである。
それ故に、国際貿易においては、立場の弱い相手にも敬意を払うといったような「連帯精神」が必要とされているのだという。
途上国相手の商取引は、競争原理による「能力主義的」な商取引ではなく、「連帯精神」に基づいた「共同体主義的」な商取引が望ましい、ということであろう。
このような、諸国家間の商取引関係をいっそう正義に則したものとすることを目指す共同の努力が、進歩の途上にある諸国にとって、積極的な助けとなることは、誰の目にも明らかでしょう。しかもその効果は、単に現在の一時的なものであるばかりでなく、将来へ続く永続的なものなのです。
「第二部 人類の連帯的進歩のために」(p.67)
立場の弱い相手に対する「軽侮」ではなく「敬意」に基づいた手助けによってこそ、発展途上国は、自国の特質を活かしながら、「自力」で社会的および人間的な発展を成し遂げていくことができる。
というのも、私たちの目標はこの自発的な社会的、人間的進歩にあるからです。世界の連帯性は、常により効果があるものとなっていくと同時に、すべての民族がみずからの将来を自分で建設していくのを助けるものでなければなりません。
過去の国家関係は、あまりにもしばしば、力の関係といってよいものでした。
しかしいつかはきっと、この国家関係が、おたがいの尊敬と友情、協力における助け合い、そして各自が責任をもってともに進歩することにより特徴づけられる日が来ることを願っています。
「第二部 人類の連帯的進歩のために」(p.70)
先進諸国による「連帯精神」の手助けは、先進国の「価値観」を途上国に押しつけるようなものであってはならない。
それ故に、途上国を手助けする「専門家」は、「支配者」としてではなく「援助者・協力者」として行動するように気を付けなければならない。
ですから、専門家は、必要な技術的知識に加えて、私心のない愛の真のしるしをも合わせ持っていなければなりません。専門家は、国家主義的な傲りや人種的差別をすべて捨て去って、すべての人と密接な協力ができなければなりません。
かれらは、自分が専門家であるからといって、すべての分野で他にすぐれているわけではないということを知るべきです。
かれらを育てた文化は、たしかに普遍的ヒューマニズムの要素をいろいろと含んでいますが、それが唯一の文明でもなければ、他を排除するほどすぐれた文明でもありません。また、それは適応もなしに輸入されてよい文明でもないのです。
このように派遣されていく人たちは、かれらを受け入れる国の歴史とともに、その国の種々の構成要素と文化的なもろもろの富を見出すよう心掛けなければなりません。
こうすれば、おたがいの文明を豊かにする相互の理解が確立されるでしょう。
「第二部 人類の連帯的進歩のために」(p.76)
支援相手を下にみる「軽侮」的な態度では、彼らとの真の信頼関係は構築できないのである。
そして、本回勅が推し進める、この「連帯精神」なるものは、地縁や血縁に拘束されない、新しい「共同体」であるといえるだろう。
以上。