ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「アメリカの反知性主義」第六部

アメリカの反知性主義」(リチャード・ホーフスタッター著/田村哲夫訳 みすず書房 2003年刊)
ANTI-INTELLECTUALISM IN AMERICAN LIFE by Richard Hofstadter(1963年刊)
第六部 結論(第15章 知識人 疎外と体制順応)の要約と感想

アメリカの反知性主義

アメリカの反知性主義

要約

当該部分は、著作権法に触れる可能性があるため、削除しました。(2017.11.11)

まとめ

 本書を読んで感じたこと一つ。反知性主義は、手のかかる存在であるが忌むべき存在ではないということ。
 
 「知性」と「反知性」。現代においては、知性は反知性を憎み、反知性は知性を憎む、というように、お互いがお互いを否定しあってるようだ。しかし、「知性」にいろんなことを教えるのは「反知性」であるし、「反知性」を上手に育めるのは「知性」しかいない。
 知性が《親》だとしたなら、反知性は《子供》だと思うのだ。お互いが触れ合う中で、お互いが成長していくものだと思うのだ。親の役割を担う「知性」は、完成された完全な存在なのではない。彼もまた途上であり未熟な存在なのである。
 親である大人も、その子供も、どちらも未熟であり、成長過程の存在である。けれど、大人には大人の目から見える世界があるし、子供には子供の目から見える世界がある。そのどちらも一つの世界であり、どちらか一方から見える世界だけが正しいとは言えないと思う

 ある知識人たちは、《アウトサイダー》であることによって、《体制順応的》となる堕落を避けようとする。しかし、「自発的な疎外」によって守られるのは「自らの純粋性」のみであるようだ。そして、その浮き世離れした純粋性もまた、一種の《堕落》といえるのではないか。
 浮き世離れした純粋性、それは人間の《みじめさ》を置き去りにした理想であり、それは《空中楼閣》にすぎない
 人間の《みじめさ》。それは子供において顕著である。弱くてままならない存在、それは置き去りにするものではなく、暖かく包み込むものだと思う。
 《みじめさ》を置き去りにした《空中楼閣》は、きらびやかで威風堂々としたものであろうが、脆く崩れやすいものだと思う。大人ばかりで創られた世界だが、大人もまた《みじめさ》を無くしきれないからだ。

 これまで六回に分けてホーフスタッターの「アメリカの反知性主義」をまとめてきましたが、えらい時間がかかった割には、読みにくい要約にしかならず、わざわざ読みにいらしてくださった皆様には、大変ご不便をおかけしました。ただ、この「アメリカの反知性主義」という本は、個人的にとても為になりました。皆様も興味を持たれましたら、少々値段は張りますが買って損のない書物だと思います。最後までお読みくださり、ありがとうございました。