ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「アメリカの反知性主義」第五部

アメリカの反知性主義」(リチャード・ホーフスタッター著/田村哲夫訳 みすず書房 2003年刊)
ANTI-INTELLECTUALISM IN AMERICAN LIFE by Richard Hofstadter(1963年刊)
第五部 民主主義の国の教育(第12章 学校と教師、第13章 生活適応への道、第14章 子どもと世界)の要約と感想

アメリカの反知性主義

アメリカの反知性主義

要約

当該部分は、著作権法に触れる可能性があるため、削除しました。(2017.11.11)

感想

 教育に関しても門外漢なので偉そうなことを語れないのは「重々承知の助」なのであるが、せっかくなので読んでいて感じたことを恥を知らぬかの如く偉そうに語っていこうと思う。

 デューイは、教育不能とされた子供たちに「自己肯定感」を持たせたかったのではと思う。自己肯定感のない子供はアカデミックな科目によって肯定感が満たされることはない。まだその段階に達してはいないのではないか。
 子供がはじめに「自己肯定感」を覚えるのは、電車の名前やポケモンの名前などを暗唱してみせたときに、母親が驚いて見せたりほめてあげたりしたときに生じるのだと思う。そんな母親がいれば、いかに覚えるものが「ばかげて」見えたとしても達成感や肯定感は強まっていくものだと思う。
 こうした「自己肯定感」を育むのに必要なのは、母親のような「愛情」の存在なのだと思う。程度の低い「ばかげて」見えるカリキュラムではなく。新教育者たちは、カリキュラムの程度を下げることで「愛情の有無」の問題は乗り越えられると思っていたのではないか。

 また古い権威主義的なカリキュラムにも問題があったのではないかと思う。このカリキュラムによって伝えられる「真理」というものが、「向かうべき場所」ではなく、「身につけるべきもの」になってしまっていたのではないかと思われる。
 もし、真理を「青空」に例えるならば、我々はそれに向かって伸びてゆく「草木」なのだと思う。我々は真理に向かって少しずつ伸びてゆく存在なのだ。
 しかしいつしか「教師という大きな木」が、自らの大きさから「青空」であると気取ってしまったので、真理が「狭苦しい野暮ったいもの」に感じられるようになってしまったのではないか。

 真理が「身につけるべきもの」ではなくて「向かうべき場所」であるという意味において、私は、デューイの「教育に最終目標なし」という定義にも深く首肯できるのである。彼の追随者たちは、身につけるべきとされた「ヨロイ」を破壊することに忙しく、向かうべき「真理」を見失ってしまったようだが。