「アメリカの反知性主義」第四部
「アメリカの反知性主義」(リチャード・ホーフスタッター著/田村哲夫訳 みすず書房 2003年刊)
ANTI-INTELLECTUALISM IN AMERICAN LIFE by Richard Hofstadter(1963年刊)
第四部 実用的な文化(第9章 ビジネスと知性、第10章 自助(セルフ=ヘルプ)と霊的テクノロジー、第11章 ひとつのテーマをめぐる諸相)の要約と感想
- 作者: リチャード・ホーフスタッター,Richard Hofstadter,田村哲夫
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2003/12/20
- メディア: 単行本
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要約
当該部分は、著作権法に触れる可能性があるため、削除しました。(2017.11.11)
感想
この第四部で気になったのが、「自助文学」と「霊的文学」のところである。自助による「信仰の実用化」も問題があると思うが、それよりも「霊感文学」の《自己を操る能力》の方に深刻な問題があると思った。
霊感文学が《自己を操る能力》として言い表していることが、《自己疎外》のことのようにしか思えないのである。操る対象の《自己》をちっとも大切にしていないようなのである。彼らは、本の教えの通りに自分を上手に操作して、自分ではないものになることを目指しているような気がするのである。
この《操作》は以前のブログで取り上げたチェスタトンの「自分の内にある悪と向き合う」という《内向的》なものでは全くなく、「自分を押し殺して、新しい自分になるためにやる」という極めて《外向的》な性質のもののようである。そしてその外向的な奉仕も、「相手のため」にやるのではなく、「新しい自分になるため」にやるのである。
こういった形の信仰の行き着く先は「自己疎外」に他ならないと思う。そしてこれはかつての私が通ってきた道だ。私は自己疎外を強化することによって成長しようとしてきたのである。もちろん表面的な成果は得られていた。《自信》もついた。しかしこの自信は、何らかの「能力」に対する自負のことでしかなく、自分自身に向けられるものではなかったのである。自分自身を「惨めだから」という理由で片隅に追いやっていたのだ。これは本当の《自信》ではない。
私がカトリックになった当初、信仰というものが曖昧であったので、これまでのように自己疎外をすることによって、むしろ自己疎外を強化することによって、誰かに(神に?)認められようとしていた。しかしこれは苦しいだけでちっとも成長に繋がらないのである。成長するために歯を食いしばるばかりで、成長に必要な《愛》を求めることはしないからである。
苦しみには二つある。ひとつは「悪」による苦しみ。これはサルヴィフィチ・ドローリスという本にに詳しく書かれている(と思う・・・・・・最近読み返していないから記憶がアイマイ)。もうひとつは、「自己疎外」による苦しみであって、これについてキリスト教が言及するのは稀ではないかと思う。基本、キリスト教にとって苦しみを語ることは、悪について語ることだからだ。そしてキリスト教にとって、苦しみは「担うべきもの」なのだ。しかし「自己疎外」まで担っていたら精神病になってしまう。
一方ダライ・ラマ14世などの仏教の書物を読んでいて気付かされるのが、仏教の教えが「自己疎外」を癒してくれるということである。煩悩などは「自己疎外」を強めるものでしかなく、その煩悩について触れることは「自己疎外」を癒すことだからである。
宗教は「自己疎外を強化するもの」ではない。自己疎外と宗教が結びつくのは「宗教が曖昧なものになっているところ」においてだけである。ISISにみられるような宗教的過激主義も、宗教というものが曖昧になり、信仰と現世利益が「ボンヤリと溶け合った」ところに生じてきているのではないかと思う。彼らの内面は自己疎外に苦しんでおり、絶望もしているのではないかと思われる。
これからのブログで「自己疎外とキリスト教」についてうまく書けていたらいいなぁと思う。
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