ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「アメリカの反知性主義」第三部

アメリカの反知性主義」(リチャード・ホーフスタッター著/田村哲夫訳 みすず書房 2003年刊)
ANTI-INTELLECTUALISM IN AMERICAN LIFE by Richard Hofstadter(1963年刊)
第三部 民主主義の政治(第6章 ジェントルマンの凋落、第7章 改革者の運命、第8章 専門職の興隆)の要約と感想

アメリカの反知性主義

アメリカの反知性主義

要約

第三部 民主主義の政治

第6章 ジェントルマンの凋落
 アメリカ合衆国が知識人によって建国されたことは皮肉な話である。なぜならその後の合衆国の政治史において、知識人はアウトサイダーにすぎなかったからである。
 ではなぜ建国の歴史に尊敬の念を抱く国民が、政治的知性を評価しなくなったのだろうか。「知性に対する不信」は、知識人である建国の父たちが利害の対立から分裂し始め、さらにフランス革命の余波によって亀裂を深め、もはや政治の倫理を尊重しなくなった時に、初めて表面化した。
 反知識人の最初の標的にされたのがトマス・ジェファソンだった。彼を攻撃したのはフェデラリストの指導者やニューイングランドの体制派教会の聖職者であった。このジェファソンに対する非難には、その後の「反知性主義」に続く共通性がある。それは「必要なのは知性よりも人格である」というものである。
 ジェファソンは反体制派の福音主義者たちに寛容であり「信教の自由」の擁護者であったので、体制派教会からの敵意を買っていた。こうしてジェファソンたちリベラリストは敬虔主義派と奇妙な政治同盟を組むことになるが、体制派教会によるジェファソンの人格に対する中傷によってこの同盟は破綻する。この結果、一般大衆と知識人との亀裂は深まり、民主主義の台頭によって、人民が貴族階級の支配を逃れ、一般大衆と知識人との最終的な分裂が起こったとき、福音主義派の勢力は「反知性主義」を産み出すことになる。

しかも彼らの反知性主義は、どの点でも体制派の聖職者がジェファソンに対してもちいたものよりはるかに強烈で毒があった。(p132)

 ポピュリストの文筆家であり素朴なニューイングランドの農民であるウィリアム・マニングが、政情の混迷する1798年に「自由の鍵」を書き表している。その中で彼は政治闘争を実行する力として「学問」を中心に据えた。しかし、その学問とは「利益追求のための手段」としての学問でしかなかった。
 少数派である知識階級が学問を利用して利益を独占している以上、初等教育を拡充し学問を庶民のものにすることで利益を分配したい、と彼は望んだのである。
 しかし同時にマニングは高等教育の内容を削ることも提案した。彼にとって高等文化は無意味な有閑階級の特権でしかなかったのである。
 大衆が自分たちの権利を拡大するために教育を利用したかったことは理解できる。しかし、どうすれば高等文化を破壊せずにその目的を達成できるかは誰も考慮することはなかった。

 アメリカのポピュリズム的民主主義は、「有閑階級の知識」よりも「庶民の道徳的感性」を重視し、「政治問題とは本質的に道徳問題である」と定義することによって、政治の世界において知性を否定する基盤を築いていった。
 1824年と1828年アンドルー・ジャクソンジョン・クインシー・アダムズの大統領戦は、ジャクソンの「新しい」民主政治とアダムズの「古い」貴族政治の戦いであった。
 アダムズは学問や科学の振興を重視し、中央集権型政治を目指し、ヨーロッパ諸国を模倣しようとしていた。こうした知的コスモポリタニズムは、当時も今も人気がない。
 対するジャクソンは、「退廃の」ヨーロッパから「自然の」アメリカを守る、自然人の自然的英知の代表として支持者からの賞賛を受けていた。

森林からじかに英知を引き出すこの原始主義の英雄に対比すると、外国での経験もあり、学識も豊かなアダムズは人工的な人物にみえた。1828年、アダムズが四人で争う異常な選挙に勝ったときですら、ジャクソンのほうがはるかに人気が高かった。この将軍がアダムズに再挑戦した四年後、もはや結果は自明であった。アダムズはニューイングランドを除く全州で敗れた。(p140)

 ジェクソンに敗れたホイッグ党はジャクソンのポピュリズムの戦術を取り入れるようになり、ついにポピュリズムのレトリックとネガティブキャンペーンを大々的に用いて1840年の選挙で勝利することになる。
 しかし、かつては教養あり厳格で普通選挙に反対していた人々が、いまや人民の友を自称し、よこしまな選挙戦術をよしとするまでに変わったのである。感受性の高いホイッグ党員ならば、ポピュリズムに塗り固められた選挙戦から恥じて逃げ出したかったのかもしれない。だが、政治の世界に留まっているためには逃げ出すことは許されなかったのである。
 アメリカの政界における一勢力としてのジェントルマンは自滅しつつあった。

 共和国の初期には、高位にいる者が自分たちの判断で才能ある人物を議員に招いていた。やがて選出の方法は変わり、野心的な政治家が人民に合わせる資質のほうが、先輩に認められる資質よりも重要になる。
 議員選出の方法と同様、公務員の運命も変わった。共和国の初期には、公的名声と個人的高潔さそして力量を持つ人が選ばれていた。
 しかしやがて公務員の任命権が猟官制(スポイルズ・システム)」に変わった。1829年に大統領となったジャクソンが、官職の入れ替え制によって、高潔な人物による官職の独占を廃止したからである。この考えは機会均等という民主主義理念にも適合していたが、同時に専門職の存在は軽んぜられることになった。
 こうして熟練と知性は公的立場から遠ざけられ、ジェントルマンと同様にその存在価値を失っていくのである。


第7章 改革者の運命
 アメリカの政治から疎外されていたジェントルマンは、南北戦争1861年〜1865年)において教養人を重用したリンカンに期待を寄せ結集した。しかし戦争が終わると汚職やスキャンダルが蔓延り、北軍の勝利という結果だけを残して「再建」が失敗に終わったことが明らかになる。
 そんな戦後の灰塵の中から欲求不満の貴族階級というアメリカ特有の反体制派が現れてくる。彼らは育ちの良い改革者であり、その中心課題は「公務員制度の改革」であった。彼らは政治的にも道徳的にも寄る辺がなく、一般大衆からも遊離していた。階級的利害や気取り、優雅さが災いして労働者階級や移民も彼らから離れていった。それでも彼らは二大政党間の均衡の狭間で影響力を保持するのがやっとであった。

とはいえ、彼らが立法面で際立った成功を収めたのは公務員制度改革、つまり1883年のペンドルトン法の成立だった。これはとくに注目に値する。公務員制度改革はジェントルマンの階級的争点であり、アメリカ政治文化の試金石だったからである。(p157)

 「公務員制度の改革」という改革者の理想は、職業政治家の理想と真っ向から対立した。職業政治家は政党政治に信を置き、選挙ごとに公務員が入れ替わる猟官制を重視する一方、改革者は公務員の在職期間の保証と能力主義による自由競争を重視していたからである。
 もしガーフィールド大統領が暗殺され、公務員制度改革の熱が急騰することがなかったならば、ペンドルトン法に盛り込まれていた改革は一世代ほども遅れていたことだろう。

 こうして職業政治家と改革者の長い戦いは始まる。庶民との信頼関係という点では職業政治家の方が有利であった。しかし議論の場になると政治家は不利になる。なぜなら改革者は生計を政治に頼る必要はなかったので、公平無私の純粋性を保ち続けるのが容易だったからである。
 政治家は対抗策として改革者の教養や適性を批判した。彼らの言い分は、現実は道徳や教養という「女々しい領域」ではなく、実業や政治という「男らしい領域」なのだ、というものであった。政治家にとって、改革者の教養と潔癖な作法は男らしさに欠ける証拠でしかなかった。

 改革者が政治の主流から疎外されていた状況を打破したのは、セオドア・ローズヴェルトである。彼は改革者と同じ階層に属し同じ教育を受けていたにも関わらず、かなり早くから改革者への批判は的を射ていると感じていた。そして改革を推進するためには、知識階級出身の新しい精力的な指導者が必要だと痛感していた。
 ローズヴェルトは改革者について、『自伝』のなかで述べている。

彼らはきわめて洗練されたよきジェントルマンであり、政治の腐敗を嘆いては居間や応接間で議論を重ねていた。しかし、彼らは実社会で暮らす生活人の心をまるでつかめなかった。(中略)執拗に要求しつづけさえすれば、意のままに庶民に広めることができると言わんばかりだった。応接間の改革者は熱心な批判を展開することで、行動力の不足を補っていたのである・・・・・・。(p168)

 ローズヴェルトが19世紀末に全米の人気を集めたのは、彼が富裕階級お及び知識階級に属しながらも、カウボーイや義勇騎兵隊の兵たちとつきあう術も心得ていたからである。
 ローズヴェルトの政治家デビューの頃のイメージは「女々しい気取り屋」というものであったが、その後彼が必死になって作り上げた個人イメージが新聞に取り上げられるようになり、その活力と誠実さが好意的な反応を呼び、教育と経歴にもかかわらず好意をもたれるようになった。
 ローズヴェルトが西部に詳しく牧場での経験もあったことも「男性的だ」という評価を得るのに役立った。また狩猟の腕前も政治的利点になった。ローズヴェルトは、公務員改革が狩猟と似ていることを身をもって語れる唯一の改革者であった。
 ローズヴェルトは都会の女々しい世界に対立する、西部の男性的な世界の体現者であった。軍国主義国家主義と不撓不屈の生き方をローズヴェルトが説いたことで、ますます彼の攻撃性は浮き彫りにされ、ここに初めて腰抜けではない知識人政治家が誕生したのである。
 人々はローズヴェルトのうちに、育ちの良さや教養という女々しいハンディキャップを精力的な男らしさで吹き飛ばしてしまうという、アメリカ人政治家の典型を見たのである。
 こうして、政治の世界でのジェントルマン=改革者の不遇の時代は終わりを告げようとしていた。そして革新主義の台頭により、専門職の時代が始まろうとしていた。


第8章 専門職の興隆
 革新時代の改革者たちが目指したのは、混乱した巨大権力を整理し、そこに人間性と道徳を加えることだった。そのためには政府の機能は複雑化し専門職の必要性が増大する。民主主義と知識人との対立も解消しつつあるようだった。知識人は一世紀ぶりにアメリカの中枢に返り咲いたのである。しかし知性に求められる役割は昔とは違っていた。「崇敬されるシンボルとしての知性」ではなく、「奉仕する従僕としての知性」というのが新たな役割となった。
 革新主義運動期の中でロバート・M・ラ・フォレットはブレーントラストの理念を生みだした人物として評価されるべきだろう。セオドア・ローズヴェルトが知性と男らしさの両立を証明したように、ラ・フォレットは知性が政治に有用であることを証明した。

 政治の世界で専門職の試金石となったのはワシントンではなく、ウィスコンシン州のマディソンであった。ウィスコンシン州知事のラ・フォレットの試みが教訓的なのは、今では当たり前になった政治における専門職や知識人の役割が、社会に認められていく全段階を示していたからである。
 第一段階で知識人と改革の必要性が叫ばれ、第二段階で知識人とその手がけた改革が同一視される。第三段階で改革の効果に対する不満が噴出し、最終段階において知識人は追放され、改革は未然に終わるというものである。
 1892年、のちに「ウィスコンシン理念」と呼ばれるものが生まれる。ウィスコンシン大学フレデリックターナーと学長のトマス・C・チェンバレンウィスコンシンを中西部諸州における社会科学のパイオニアにしたいと考えていた。彼らの大学の役割の中で、特徴的なのは完全な無党派性だった。つまり大学は政党ではなく「人民」全体に奉仕すべきものであり、またイデオロギーではなく情報や助言などの頭脳を提供すべきものだとされたのである。
 1900年にラ・フォレットが州知事に当選すると、ウィスコンシン大学の卒業生でありウィスコンシン理念に共鳴していたラ・フォレットは、すぐさま大学が養成した専門家を登用し、税制改革や鉄道規制などの政策に関して助言を求めた
 同じくウィスコンシン大学卒業生のチャールズ・マッカーシーが「立法リファレンス・サービス」という独立機関を設立する。このレファレンス図書館の理念は、不偏不党のサービス機関であることと、州議会議員が複雑化してきた問題に応えるために必要な膨大な量の情報を提供することにあった。
 ラ・フォレットは、政治ボスたちによる密室会議に代わるものとして、専門家と問題を話し合う「サタデー・ランチ・クラブ」を設立する。しかし、専門家の助言による革新政治によって損失を被っていた鉄道事業者などの実業家たちは大学とリファレンス図書館を敵とみなしていった。
 1914年、全国規模の党の分裂によって共和党革新派は痛手を受け、保守主義者が優勢になった。彼らは、ラ・フォレットらの推す候補者を打ち破り、鉄道事業者で材木業者のエマニュエル・L・フィリップを州知事の座に据えた。フィリップは選挙運動中、大学の専門家を非難し、反知性主義者としての自分を売り物にし、さらに「大学の政治への介入」の停止を要求した。
 しかしひとたび選出されると、フィリップは柔軟な姿勢を示すようになる。彼は州議会に対してマッカーシーのレファレンスの廃止と大学の予算削減と規模の縮小を要求したが、時が経つにつれ慎重になっていった。というのも、保守的な法案の起草者たちがレファレンスを利用しはじめたため、州知事は不偏不党を唱えるマッカーシーの主張に根拠があることを理解したからである。
 こうした動きがある一方で、大学が政治に関わることが、大学全体に認められているわけではなかった。実に多くの大学人が大学が政治に関わることは、純粋で公平無私な知性主義という旧来の理念を裏切るものと感じていたのである。

このため、一般人のコミュニティでは専門職を受け入れるかどうかで議論が沸騰し、学者のコミュニティでは、大学の未来の鍵を握るのは現実の役に立つ専門職か、純粋な学問を奉じる者かが議論の的になっていたのである。(p180)

 セオドア・ローズヴェルトウッドロー・ウィルソン、このふたりが大統領に就任したことによって、知性は国家の統治に欠かせないと人々は信じるようになった。しかし、両者とも同時代の知識人に共感していたわけでも、知識人から全幅の信頼を寄せられていたわけでもない。ローズヴェルトほど知識人と見られることを願った20世紀の大統領はなかったが、彼は「知性の位置」に関してある感情を抱いていた。それは「知性よりも人格が大切」という一般的のアメリカ人の好みや、この両者が「対立する」と考える傾向である。
 ウィルソンは、大統領職に学者気質を、その欠点も美点も含めて持ち込んだと言われてきた。また彼の精神は厳格で温かみに欠けるものであったが、それは学者であるからよりも長老派に属していた結果だろう。
 1912年にウィルソンが大統領に当選したとき、多くの知識人が支持したのは事実だが、ウィルソン政権初期の施策は革新性に欠けていたため、次第に知識人は離れていった。そして皮肉なことに「戦争」がリベラルな知識人をウィルソンのもとに集結させることになる。第二次大戦下において専門家はあらゆる分野で助言者として登用され、和平交渉やヴェルサイユ条約国際連盟規約などにおいて重要な役割を果たすことになり、大衆からの賞賛を受けるようになった。
 しかし、大衆のムードは豹変する(要約者注:本書の中では述べられていないが、ストライキやテロの頻発、アカの恐怖など大戦直後の社会不安を増大する動きによってであると思われる)。その結果、ウィルソンと手を結び、第一次大戦で采配を振るった知識人に対する信用は地に落ちることになる。さらに決定的だったのが、「戦争に勝てば革新主義に弾みがつく」として戦争ムードに加担したことにより、彼らの道徳心が崩壊したことである。勝利が彼らにもたらしたのは失望感と罪悪感だけであった。
こうして

知識人と一般民衆との和解は、以前にもまして早々と崩れ去った。大衆は知識人を無駄で誤った改革の予言者、行政府の立役者、戦争支持者、アカの手先として糾弾した。知識人も、アメリカは、まぬけとバビット(教養の乏しい小実業家)と狂信者の国だと攻撃した。(p186)

 両者の隔たりを克服するには、大恐慌ニューディールの時代を待たなければならなかった。

 フランクリン・D・ローズヴェルト大統領による「ニューディール政策」の期間中に、知識人と大衆の関係は再び修復され、より深いものとなった。しかし知識人が波に乗れば乗るほど、強固な少数派による知識人への嫌悪感は増大していき、これが第二次大戦後に爆発することになる。
 長期的に見ると、知識人がこの少数派から受けたダメージは甚大であった。だけど短期的とはいえ、ニューディールが知識人にもたらした恩恵はなんと大きなものであったろう! ニューディールのもとで知識人の思想、理論、批判は新しい価値を持ち始め、何より知識人の必要性を知識人自身に確信させることができたのである。
 ニューディール政策の法案は専門家によるブレーントラストのもとで起草され、迅速に可決されていったが、こうした政策がとられたのは専門職が望んだためではなく、有権者が望んだためだった。それでもなお教授連が事を牛耳っているという見方は広まっていった。
 当時、知識人の名声のために、旧来の政治家や実業者たちは影が薄くなっていた。彼らは知識人を無責任な「実験的な」政策によってこの世界を破壊するものと捉えていた。
 一方、知識人の擁護者たちは、旧来の「実践的な」権力者よりも知識人が劣るものでないことを証明しようとした。事実、政治家たちは大恐慌に対してうまく対処できなかったし、実業界の大半のリーダーも役立たずどころか有害な存在でしかなかったのである。しかしこういった指摘は、ニューディールに反対する者の眼には煽動的と映るおそれもあった。
 第一次大戦同様、第二次大戦においても専門職の必要性は増大した。しかし戦争が終わるとニューディールと戦争によって抑えられていた嫌悪感が爆発することになる。こうして知識人と民主主義との強調は再び終わりを告げたのである。

 知識人やブレーントラストに対して鬱積していた右翼の不満は、1952年の大統領戦でのアンドレイ・スティーブンソンの敗北という結果を生む。洗練されていたスティーブンソンに比べ、アイゼンハワーニクソン及びマッカーシー共和党は無教養で愚劣きわまる印象であった。不幸なことにこういったことが知識人とスティーブンソンの一体化を強め、やがてその敗北によって大いに傷つかせることになるのである。
 しかしスティーブンソンの敗北を彼のウィットや知性、高潔さに帰するのは適当ではない。何よりもティーブンソンに足りなかったもの。それは積極的な態度である。彼の謙遜は大衆に不安を抱かせた。それに比べればアイゼンハワーの穏やかな自信は魅力的に感じられたのである。
 こうして1952年の選挙戦では1880年代の金メッキ時代の時のように、知性は再び「女々しさ」と結びつけられた。そして「書物からの知識より実生活から得た人格」という懐かしい響きもよみがえる。
 ところが同じ大統領戦において、ジョン・F・ケネディは知性と人格を再び結びつけることに成功する。 まだ若く、宗教的にも少数派に属していたケネディニクソンを破ったのは、テレビ討論会で優れた攻撃性と自己確信を見せつけた結果である。
 20世紀に入ってマスメディアが発達し、大統領職の「表舞台」がクローズアップされるようになった。そしてケネディは、知識人や芸術家を国家の表舞台に招くことに、特別な努力を払う必要を感じた初めての大統領である。こうして大統領官邸は再びシンボルとしての役目を果たすことになる。

なかでも印象的だったのは、まだ記憶に新しい1962年春のノーベル賞受賞者を集めた晩餐会だろう。そこで大統領はいかにも彼らしく、トマス・ジェファソンが独りで夕食をとっていた時代以降、いまほど数多くのすばらしい頭脳がホワイトハウスのテーブルにそろったことはないと述べている。(p201)

 より大きな問題は、知識人である専門家とそれ以外の知識人社会との関係である(最終章で再述する)。さらに権力側に立った知識人の立場も問題になってくる。知性が無力な地位に追いやられている時と同様に、知性が権力と結びついた時にも強い危機が訪れるのである

権力と結びつくことも、重要な政治的地位から疎外されることも容易に受け入れられないー現代社会の一勢力となった知性は、この事実のために深刻で逆説的な問題に直面するのである。(p202)

感想

 アメリカの政治史のことは、とんと分からないので大抵のことが的外れな指摘になってしまいそうなのだが、読んでいて感心したことひとつ。それは、アメリカにおいて「知性主義」と「反知性主義」とが《対等》に争えているということである。衆愚と呼ばれがちな「反知性主義」がここまで力をもっているのは民主主義と平等主義の理念を抱いたアメリカ特有のものなのではないかと思った。

 あと感じたことひとつ。それは反知性主義だけが《愚かしいもの》と定義されがちであるが、知性主義も愚かしいものに変容してきているのではないかというものである。
 けれども、知性主義に対するこの懸念は「アメリカの反知性主義」のように、知性主義が《貴族性》を含んでいるからではなく、現代の知性主義に《貴族性》がほとんど感じられないところから浮かんでくるのである。
 本来、貴族に求められていたのは、鷹揚さや寛容さといったノブレス・オブリージュだったはずである。けれど現代の知性主義から《寛容さ》を感じることはできない。
 いつの間にか「知性主義」から「貴族的な性質」が取り去られてしまい、その結果「知性主義」は「叩き上げのエリート」のものとなったように感じられる(このエリートのイメージは、オルテガの《大衆》のイメージの方に近い)。
 叩き上げのエリートは、庶民の優しさを持つが、貴族のような寛容さはない。同族には優しいが、異質のものには厳しくなってしまう。そしてこの「叩き上げのエリート」たちの眼には、自分たちの思い通りに動かない大衆が「異質なもの=衆愚」と映るのではないか。そう衆愚のひとりである私は思ってしまうのである。

 ラ・フォレットの所を読んでいて、彼らの野心的な試みに胸が高鳴った。しかしラ・フォレットたちの試みは、知識人の立場を向上させたが、同時にそれは、知識人を「専門家」という「叩き上げのエリート」に変えることを意味していたのではないかと思うのである。
 そしてウィリアム・マニングが「有閑階級の特権」と吐き捨てた高等文化の中に含まれていたのは《寛容さ》であったのではないかと思うにいたり、知性よりもアウトサイダーな《寛容さ》にそっと毛布を掛けてやりたくなるのである。


大衆の反逆 (ちくま学芸文庫)

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寛容論 (中公文庫)

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