ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「アメリカの反知性主義」第二部

アメリカの反知性主義」(リチャード・ホーフスタッター著/田村哲夫訳 みすず書房 2003年刊)
ANTI-INTELLECTUALISM IN AMERICAN LIFE by Richard Hofstadter(1963年刊)
第二部 心情の宗教(第3章 福音主義の精神、第4章 福音主義と信仰復興論者、第5章 近代性への反乱)の要約と感想

アメリカの反知性主義

アメリカの反知性主義

要約

当該部分は、著作権法に触れる可能性があるため、削除しました。(2017.11.11)

感想

 この第二部では、アメリカの宗教に見られる反知性主義の動向が述べられているわけだが、その特徴は、知性主義=知性派=頭脳反知性主義=情緒派=心情の「分裂」と「敵対」にあると思う。
 そもそも、頭脳と心情は全く別のものであるが、どちらも「真理」にいたる為には必要なものであり、分裂してしまってはいけないものだと私は思っている。
 頭脳だけが、もしくは心情だけが「真理」に向かうのではなくて、頭脳と心情を持った人間が真理に向かうのだと合点しているからだ。まあ、単に「信仰と理性を分裂させちゃアカン・・・・・・あかんねんで」というカトリックの教えに倣っているだけだが。
 つまりは、頭が紡ぎ出す「言葉」や「概念」も大切なものだが、心に満たされる「愛」や「慈悲」もまた大切なものだっちゅうことだ。
 そして、「言葉」と「愛」を別々に別れさせてしまうのではなく、「愛の言葉」というひとつのものにするのが、人間らしいこと、真理を手繰り寄せることだっちゅうことだ。
 ただ、頭も自惚れていると「干からびたカチカチの言葉」しか吐き出さないし、心も放っておくと憤怒や嫉妬といった「負の感情」に包まれてしまうから、手間がかかるね面倒くさいねでも頑張ろうねっちゅうことになるのだ。

 アメリカにおいては他の国々より明確に「頭脳=知的合理主義」と「心情=感情的原理主義」が分裂および敵対し合っており、その葛藤こそがアメリカの原動力なのだと思うが、これはいつまで続けていけるものなのだろうか。
 これまでのようにイニシアチブをどちらが取るのかで争っているうちは良い果実も実るだろうが、対立や不満が強まっていくと、互いに否定し合うだけの「絶対善と絶対悪」のマニ教的二元論に陥っていくことになると思う。
 頭は「軽薄な心」を絶対悪だとし、心は「重たい頭」を絶対悪だとして、互いに否定しあい排除しようとするのだ。
 けれど「重たい頭」や「軽薄な心」を取っ払ったところで問題は根本的な解決をしないと思う。どんなに役立たずの「重たい頭」でも、どんなに不甲斐ない「軽薄な心」でも人間であり続けるためには切り離すことはできないのだと思うからだ。

信仰と理性―教皇ヨハネ・パウロ二世回勅

信仰と理性―教皇ヨハネ・パウロ二世回勅