ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「よりよき世界を求めて」第一〇章

「よりよき世界を求めて」(カール・R・ポパー著/小河原誠・蔭山泰之訳 未来社 1995年刊)
Auf der Suche nach einer besseren Welt by Karl R. Popper(1989年刊)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

要約

第一〇章 知による自己解放

当該部分は、著作権法に触れる可能性があるため、削除しました。(2017.11.11)

感想

 「善と悪、どちらの側に立つのか」。この問いは、世間で好んで問われ、老若男女にひとつの選択をせまる。そして、この問いは、同時に「何が善か」という新たな問いも生じさせる。悪の側に立ったと思われる者らであっても、彼ら自身は善の側に立っていると思っているかもしれないからだ。だとすれば、彼らもまた悪を望む悪しき者などではなく、義を望む正しき人であるかもしれないわけだ。
 立場や党派などの違いによって、それぞれの人にそれぞれの正義がある。これが相対主義である。それぞれが正義の「所有者」であるというわけだ。けれど、私が思うに、人間は正義の「所有者」ではない。なぜなら、正義は人間の手の内にあるのではなく、人間から離れたはるか上空にある太陽のようなものだと思うからだ。真理もまた同じ。人間は、自分たちの上空にある正義や真理に向かって育っていくものなのだと私は思うのである。
 人それぞれ。これは確かである。そして我々には、人の「多様性」を認める責務が課せられている。「多様性」が金科玉条ならば相対主義でいいではないかと言いたくなるが、さにあらず。相対主義の問題点は、正義や真理を人間の「所有物」と捉えているところにあると思う。また、相対主義の「多様性」における問題点は、「他人は他人、自分は自分」と、ただ自分の内の真理を見つめるばかりで、上空にある真理を見上げることはないところにあると思う。
 しかし、正義や真理を自分たちの「所有物」と思いこむことによって、やがて、狂信の道をひた走り、傲慢になるのではないか。そして、善を欲しながら、悪い結果しか残せないのではないか。こうした相対主義の行き着く先は、互いに正義を主張する、党派間の争いに他ならないように思われる。
 善の側に立っている、善を支持しているからといって、我々自身が善そのものになるわけではない。我々は善や正義や真理の前では、常に不完全な存在なのである。こうした自覚によって、ポパーが主張する「知的謙虚さ」が生まれてくるのだと思う。
 我々は、太陽に向かって育っていく、多種多様な木々なのだ(そういったことを描けているのではないかと自負している私のヘボ詩「木」 - ハキダメ記「篠崎にて」 - ハキダメ記)。