ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「サルヴィフィチ・ドローリス」 苦しみのキリスト教的意味

なぜ、苦しみが存在するのか
なぜ、苦しまなければならないのか
なぜ、悪人が栄え、善人が苦しむのか
苦しむことに何の意味があるというのか
それらの訴えに対する、カトリック教会の答え

ヨハネ・パウロ二世教皇書簡 サルヴィフィチ・ドローリス 苦しみのキリスト教的意味
(SALVIFICI DORORIS 1984

サルヴィフィチ・ドローリス

サルヴィフィチ・ドローリス

要約

当該部分は、著作権法に触れる可能性があるため、削除しました。(2017.11.11)

新しく書き直した記事があります。コチラをご覧ください!(2019.2.19追記)
uselessasusual.hatenablog.com


感想

 苦しみに襲われたとき、頭によぎるものは、《絶望》。寄りすがっている神から見放され、光は失われ、暗闇の中にたったひとり取り残され、もはや救われることはない、というような《絶望》の思い。
 このような、キリスト以前の苦しみ、義人ヨブの苦しみ、第四章で《今日的次元の苦しみ》と言われている苦しみを、私は「暗闇のような苦しみ」と例えてみたい。
 そしてこのヨハネ・パウロ二世の書簡が言いたいことは、キリストが十字架の上で死んだことによって、この暗闇の中に、十字架という《愛のしるし》が置かれたということなのではないかと思う。
 苦しみに襲われ、光は失われ、暗闇に包まれても、もはやひとりぼっちではなく、そこに十字架があり、キリストが共にいてくれるということではないかと思う。
 キリストが「苦しみの暗闇」の中で死んだことによって、またその復活によって、暗闇の中に十字架という愛のしるしが置かれ、また善の欠如である悪の中に十字架という善が置かれ、それによって絶望が希望に変わったということなのではないかと思う。
 この種の苦しみの受け入れ方は、病気や親の介護、子育てなど多くの困難に当てはまると思う。誰からも認められず、感謝もされないが、この種の苦しみと深く関わり、ままならないものに対する忍苦を通して、人間的に充実し、かつ成長していくことができるのだと思う。

 けれど、鬱病や自己疎外などに代表されるような《現代社会に蔓延る苦しみ》に対しては、この書簡のような対処法は当てはまらないと思う。
 この種の苦しみは、自傷行為のような苦しみにすぎないからである。彼らは、周囲から認められるために自分を飾りたてようと、もがき苦しんであるのである。
 この苦しみを抱く人々は、幼い頃、背伸びし自分を偽ることによって、周りに受け入れられてきた。そしてその背伸びを大人になっても必死になって続け、どんなに苦しくてもやめることができない。背伸びをし、清浄な外面になることが「成長」を意味していたからである。
 こういった苦しみを抱いている人々に、「キリスト教では苦しみは喜びなのだよ」と安直に伝えてしまうと、彼らは自分の苦しい背伸びを《喜んで》やり続けなければいけないと思ってしまい、やがて精神を病んでしまうことになるのではないか。なぜならかつての私がそうだったからである。

 周囲から「理想の子供」であるようにと求められてきた私は、大人になり洗礼を受けると、今度は「理想のクリスチャン」になることを求められているような強迫観念に駆られてしまった。必死になって外面を飾りたて背伸びをし続けなくてはいけないと感じたのである。とにかく早いとこ「自分を捨て(ルカ9:23)」なければいけないと焦っていた。そして、そのころ教えられたのが「砂の上の足跡」という詩である。
 「砂の上の足跡」を簡単に紹介すると、次のような話である。

 夢の中で、私は主と共に砂浜を歩いていた。ふと振り返ると、砂浜の上に今まで歩いてきた二人の足跡がずーっと残されていた。ところが、私の人生で一番つらいとき、一番悲しかったとき、砂浜の上には一人分の足跡しか残されていなかった。私は驚いて主に尋ねた。「あなたは共に歩んでくださるとおっしゃったのに、あなたを一番必要としているときに、ひとつの足跡しかなかったのです」と。主は答えた。「足跡が一つしかなかったのは私があなたを背負って歩いていたからだよ」と。

 この話を聞かされたとき、私は絶望してしまったのだ。「まだまだ歩き続けなくてはいけないのか。歩けないときは背負われてまでムリヤリ先へと進まされるのか。もう先には進みたくないというのに。私は休みたいというのに」と思って絶望してしまったのだ。

 そんなときに書いたのが「木」という、この苦しみに対する愚痴を長々と綴った駄文である(コレ)。その駄文の中で、私は自分を木に例えた。
 木にすぎない私が、輝く太陽になろうと必死になってもがく様を描いた。
 太陽になって、周囲から認めてもらおうと、それどころか一目置かれようと、必死になって自分ではないものになる努力をしている様を描いた。
 この様な駄文であっても書き殴ることによって、私は自分のやっていることの愚かしさを認識することでき、背伸びをやめることもできたのである。
 もちろん背伸びをやめた当初は、キリスト教徒失格だという自責の念に苦しめられはしたが・・・・・・。それくらい幼少期から刷り込まれた「成長」の感覚は根深かったのである。背伸びをやめることは「成長」を放棄することでしかなかった。

 その頃から読んでいる、テレフォン人生相談でおなじみの加藤諦三氏の本に以下のようなことが書かれていた。

 無駄な努力をする人は、自分に満足していない。毎日の生活に満足していない。生きていることに満足していない。(中略)そして無理な努力の動機は恐怖や憎しみである。その人が気がついているかどうかは別として、周囲への憎しみ、実際の自分への憎しみである。それらの憎しみを動機にして頑張っている。そこで本来の自分を見失う。努力の目標を間違える。
「苦しくても意味のある人生」(p83)

 その通りだと思う。私の苦しみは「愛情の苦しみ」ではなく、「憎しみの苦しみ」でしかなかったのである。この「憎しみの苦しみ」によって育まれるのは「後ろ指をさされることのない清浄な外面」だけであり、決して「愛情」が育まれることはない。けれど本当の成長とは「愛情」を育むことではないか、と今の私は思うのである。そして愛情は、親の期待に応えようとする子供の苦しみを通してではなく、ままならない子供を見守る親の苦しみを通して育まれるのではないかと思う。
 私はずっと親の顔色をうかがう子供の苦しみしか知らなかった。それは不出来な自分を憎む苦しみであった。私の「成長」は、欠点を憎み、取り繕うことであったのである。何かを愛して、それに向かって育っていくことではなかった。私の念頭に浮かぶ「苦しみ」は、無理な背伸びの苦しみで、ままならないものを忍耐する苦しみではなかったのである。
 この「憎しみの原理」によっても、秩序正しくなるのは確かである。欠点や弱点をしっかりと隠蔽し、意志の力で補うことによって、人間の見かけは清らかになることは確実である。同時に内面の愛が育まれないことも確実である。内面で強化されるのは、不安と強迫観念だけであろう。

 フランクル鬱病は生命力の低下であり、生の引き潮だと述べている。ありのままの自分でいいということは生命力を高揚させることを勧めたものであり、潮のように満ちる生き方を勧めたものである。すなわち、フランクルは次のように言っている。
「生命力の低下自体の生み出すものは、まさに漠然とした不全感情にすぎないのであるが、この病気に見舞われた当の人間は、ただ腹を射抜かれた猛獣みたいに、這い逃げるばかりでなく、その不全感を彼の良心、彼の神に対する罪として体験する
「苦しくても意味のある人生」(p210)

 かつての私の苦しみは、この「不全感」の苦しみであった。みじめな自分は退けられるという苦しみであった。また、私の良心の座には「不安」が座っていた。「良心に従って行う」ということは「不安だから行う」ということでしかなかった。
 つまり、かつての私の神は、「絶えず顔色をうかがわなくてはいけない父」としての神であったのである。私は「おびえた子供」でしかなかった。おびえた子供に「ありのままの自分」であることが許されるはずもなかった。
 私にとって「神の愛」は頼りにならず、ただ「自分の清浄さ」だけが頼りであったのである。しかし自分が清浄でないことは自分が良く知っている。だから神に従おうとすればするほど、自分を頼りなく感じ、不全感を募らせていく。私はこの不全感の「砂浜」をずっと歩き続けてきたのである。
 こうした「不全感」を、苦しみだからと言う理由で「喜び」として担い続けようとしてはいけない。おびえた子供の心の中に「愛情」が育つことはないからである。おびえた子供の良心の座には「不安」が居座り続けるだけだからである。

 私の好きな詩に佐藤春夫の「水辺月夜の歌」というものがある。

せつなき恋をするゆゑに
月かげさむく身にぞ沁(し)む。
もののあはれを知るゆゑに
水のひかりぞなげかるる。
身のうたかたをおもふとも
うたかたならじわが思ひ。
げにいやしかるわれながら
うれひは清し、君ゆゑに。

 「げにいやしかるわれながら うれひは清し、君ゆゑに。」とあるが、これが今の私の信仰の感覚に近い。
 私は本当にみじめなものですが、私の想いだけは清いのです。だって私の想いの中は、あなたでいっぱいですから・・・・・・というような。頭の中の「あなた」に救われるというような感覚である。
 だから、私は過ちを行わないように気を張りつめ生きていくのではなく(それは間の抜けた私には向いていない)、過ちを繰り返す日々の中で、愛情を育んでいけたらと願うのである。
 愛情は外面と違って、その成長過程なんて目に見えないし、不確かで、本当にこれであっているのか、本当に成長しているのかと不安を感じるが、もうそれでもいいや、と思う。この子供の成長を見守る不安は、父の顔色をうかがう不安とは違って、喜びを感じるからである。。

 ただ、今の私が肝に銘じるべきなのは、今までの「憎しみの苦しみ」があまりにムゴかったが故に、あらゆる苦しみを忌避し、「愛情の苦しみ」まで避けるようになってはいけない、ということである。ままならない現実を受け入れ、それをそっと包み込む苦しみまで避けるようになってはいけない、ということである。

 もし、人に「解放される必要がある苦しみ(本まとめ二章参照)」があるとしたら、それはきっと「憎しみの苦しみ」であると思う。
 もし、人が「愛の存在」を信じられたならば、もう無理な背伸びはやめて、ありのままの自分で十字架を担っていくことができるのだと思う。

 人間は誰でも生きている意味を求めるとフランクルは言う。人間は意味を感じながら生きたいと無意識に願っている。それが充たされないことを、フランクルは実存的欲求不満と言った。
「苦しくても意味のある人生」(p33)

 「愛情の苦しみ」は、人に生きる意味を与えてくれる。
 あらゆる苦しみから解放された安逸は、生きる意味を与えてはくれない。かえって生きる意味を見失い、我々は意味を求めて、再び「憎しみの苦しみ」へと舞い戻ってくるのではないだろうか。そして、自分の表面を、世界の表面を「清浄」にしようと日々背伸びをしていくことになるのではないだろうか。

 最後に、私たちは、他人の苦しみに敏感にならなければいけない。そして、それをする際には、この書簡に書かれているようなことを暗記し、それをそのまま伝えるよりも、ただ黙って寄り添うことから始めなければいけないと思う。愛情を伝えるにはそれしかないと思うから。

どうか黙ってくれ/黙ることがあなたたちの知恵を示す。
わたしの議論を聞き/この唇の訴えに耳を傾けてくれ。
ヨブ記13:5-6)

苦しくても意味のある人生 (だいわ文庫)

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夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

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春夫詩抄 (岩波文庫)

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