ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「ダライ・ラマ 宗教を越えて」ダライ・ラマ14世著 はこんな本だった

 本書において、ダライ・ラマは「世俗的な倫理(宗教に立脚しない倫理)」を提唱している。

 この新しい倫理は、「価値観」のような外から押しつけるような性質のものではない。

 ダライ・ラマが提唱する「世俗的な倫理」とは、人間が生来的にもっている「内なる徳性」を培っていくことを意味している。

 また、本書においては、「内なる徳性」を蝕む「煩悩」と関わり、それを鎮めていくことの重要性についても述べられている。

ダライ・ラマ宗教を超えて

ダライ・ラマ宗教を超えて

ダライ・ラマ 宗教を越えて」ダライ・ラマ14世著 株式会社サンガ 2012年11月1日初版

「宗教」だけでは「倫理」の基盤にはなり得ないという事について

 ダライ・ラマは、本書の序文において、次のように述べている。

宗教はたしかに私たちに人生の意義と道徳的な導きを与えてはくれましたが、今日の非宗教的な世界においては、宗教だけではもはや倫理の基盤とはなり得ないのです。
一つの理由として、現代、多くの人々が宗教を信じていません。
もう一つの理由は、グローバル化の時代における多文化社会にあって世界の民族がきわめて密接にかかわるようになってきていることです。このような時代にあって、なにかひとつの宗教に立脚した倫理は、ある種の人々には納得できても、万人にとって意義あるものとはならないでしょう。
「序文」(p.20)

 このように、「道徳の欠如」といった今日的な問題にとって、もはや「宗教」は適切な解決策を提示することができないようである。

 このような理由から、ダライ・ラマは、「世俗的な倫理(宗教に立脚しない倫理)」という、現代社会に合致した解決策を提示したのである。

 そして、ダライ・ラマのいう「世俗的な倫理」とは、「絶対的な価値観」のような外から押しつけるような規律を意味しているのでなく、人間の内面的な力、「内なる徳性」なるものを意味しているのである。


「内なる徳性」を培う

 この「内なる徳性」には、他人への思いやりや親切心、慈悲などが含まれており、そしてそれは宗教に依らずとも、人間が生まれながらにしてもっているものだという。

私たちは宗教ぬきで生きることはできても、慈悲の心ぬきでは生きていくことはできないのです。
つまり人の根幹をなしているのは宗教ではなく人の基本的な精神性なのです。宗教の枠組みのある無しにかかわらず、私たちはもともと慈悲や思いやりなどの性質を心の奥底にもっています。
「第一章 世俗主義について考え直す」(p.44)

 「慈悲」こそが人間の本質であり、この「慈悲の心」を培っていくことが「内なる徳性」を培うことと繋がっていくのである。


「幸福」と「慈悲」について

 「幸福」なるものは、二種類に分けられるという。
 一つは、五感で感じられるような「外側」からやってくるものであり、これには富や健康、友情などが当てはまる。
 しかしながら、ダライ・ラマが「真の幸福」と呼んでいるのは、内なるレベルの満足感、自分の「内側」から湧き上がってくるものの方である。

 そして、この「真の幸福」を得るためには、「心の安らぎ」が要求され、「心の安らぎ」に必要なものこそが「慈悲」であり「思いやりの心」なのだというのである。

心の中に慈悲や思いやりの心が生まれれば、利己主義的な狭量な考え方から意識を切り替えることができます。それは内なる扉をひらくようなものです。
慈悲は心の恐れを減じ、自己への信頼を高め、内なる力を与えてくれます。不信感が減ることで他人に心をひらくことができるようになり、人とのつながりを実感し、人生に意味と目的感を抱けるようになります。
慈悲の心はまた苦境の中にある人に休息を与えてくれます。
「第四章 幸福の礎としての慈悲心」(p.82)

 「慈悲の心」の代表例は、母親の赤ん坊への愛であろう。

 けれども、この「慈悲心」も、何もせずに放っておけば、次第に執着のような「煩悩」に蝕まれていき、自分の仲間以外の者を排斥するという偏狭な愛に陥りやすい。

 だから、私たちは、「慈悲心」を放っておくのではなく、それを培い、人類全体を包み込むような「普遍的な慈悲心」へと発展させていかなければならないのである。

 そして、そのためには「煩悩」と関わっていかなければならない。


「正義」と「慈悲」について

 倫理の礎を「慈悲心」に求めず、「正義」にそれを求めようとする人々もいる。
 彼らは、「慈悲心」が得意とする「赦し」などでは、世界が無秩序になってしまうと主張するのである。

 けれども、ダライ・ラマは、本来の「慈悲心」は、不正を甘んじ受け続けるような、弱くあること、受動的あることではなく、「堅忍不抜」の精神を求めるものだという。
 「慈悲心」は、かつてマルクスが宗教を評したような「人を腑抜けにする阿片」ではないのである。

 ダライ・ラマはいうのである。
 不正に対しては断固として立ち上がるべきだが、その一方で不正を犯した人への「慈悲の心」を忘れてはいけない、と。

怒りや憎悪によって人の心を変容させることはできません。ただ相手を思いやることのみが、人の心を変容させるのです。物理的な手段で抑制できるのは、相手の物理的な行動だけで、心を変えることはできません。
「第五章 慈悲心と正義」(p.101)

 「慈悲心」と「正義」の行使は矛盾するものではなく、「正義」の行使は「慈悲心」と手を取り合いながら実行されるべきものだというのである。


「煩悩」をコントロールする

 人の幸福を妨げるもの、それは心の奥にずっと巣食っている破壊的な感情、いわゆる「煩悩」である。

 ちなみに、この「煩悩」なる概念は、前回とりあげたフロム『悪について』の“衰退のシンドローム”に近い概念だと思う。「人を破壊のための破壊へ、憎悪のための憎悪へとかりたてる」からである。

 ダライ・ラマは、「煩悩」とのかかわり方について次のように述べている。

自らの内面を養い、煩悩をコントロールするためには、二つのアプローチが必要になってきます。
ひとつは自らの内部に巣食っているこれらの破壊的な力の影響を減じるように努めること、もうひとつは、生来もっている心の徳性を培っていくことです。
この二つのアプローチこそが、真の心の修行の要になると私は思っています。
「第九章 煩悩とどうかかわるか」(p.193)

 破壊的な力の影響を減じるには、「煩悩」なるものは、「外の世界」からやってくるのではなく、私たちの「内側」から生じてくるものであることを知らなければならない。
 それを知ったうえで、私たちは、自分の「感情」をある程度コントロールすることを学んでいかなければならないのである。

煩悩という根深い感情に現実的に対処するためには、自分の心の癖に意識を向ける必要があるのです。他人や自分を取り巻く環境を責める代わりに、まず自分自身の内部を見つめてみてください。
「第九章 煩悩とどうかかわるか」(p.199)

 けれども、私たちの心の癖は、深く根付いているものなので、ただ押さえ込むだけでは逆効果の場合も多いのだという。

こうした破壊的な感情を抑え込んだり、無視したりしていると、逆に強烈に膨れ上がり、表層まで押し迫ってきて、ついには土手が決壊した洪水よろしく、予期せぬ負の思考や行動となって現れ出るかもしれません。
煩悩を抑圧するのではなく、自分に対して正直にオープンになり、何が煩悩を引き起こすのか、そのときどう感じ、どういう行動となって現れ出るのか、注意深く観察してみてください。
「第九章 煩悩とどうかかわるか」(p.201)

 この「感情の観察」は、最初はとても難しいものであるが、落胆することなく、内なる観察力を忍耐強く徐々に培っていかなければならないのだという。


エーリッヒ・フロムの思想との関連性について

 本書の内容は、拙ブログで以前取り上げたエーリッヒ・フロムの『ユダヤ教の人間観』に通ずるものがある。

 フロムもまた、「信仰なし」でもヒューマニストたりえる道を模索していたのである。
 『ユダヤ教の人間観』の中で、フロムは、「x経験」なるものを提唱しており、それは「慈悲」の経験に近しいものだと思われる。

 こうしたダライ・ラマとフロムの試みには非常に心惹かれるものがある。

 現代社会において、「西洋の価値観」なるものが、全世界における「普遍的な価値観」となっているが、そしてそれはすばらしいものなのであろうが、時にそれが息苦しく感じることがある。
 この価値観の伝道においては、「正義」の行使があるだけで、「慈悲」といったものはまったく欠いているように感じられもする。

 本書にも述べられていたように、「正義」の行使の際に必要となるのは、「慈悲の心」だと思う。
 そして、それはとても難しいことだとは思うが、それ以外の道はないと私は思うのである。

 世界をよりよくするためには、押しつけがましい「西洋の価値観」に代わるもの(補足するもの?)があるのではないかと私は思ってしまうので、こうしたダライ・ラマやフロムの試みには非常に心惹かれるのである。



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