ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「よりよき世界を求めて」第五章

「よりよき世界を求めて」(カール・R・ポパー著/小河原誠・蔭山泰之訳 未来社 1995年刊)
Auf der Suche nach einer besseren Welt by Karl R. Popper(1989年刊)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

よりよき世界を求めて (ポイエーシス叢書)

要約

第五章 社会科学の論理

当該部分は、著作権法に触れる可能性があるため、削除しました。(2017.11.11)
ただし、第十テーゼの小話は、下記の感想にも出てくるので、その部分の要約のみを掲載させていただきます。

【小話の要約部分】
 ここである出来事についてお話ししたいと思います。
 数年前、私はある神学者によって開催された四日間の会議に参加しました。会議のテーマは「科学とヒューマニズム」。はじめのうちはうまくかみ合いませんでしたが、最後の方は、お互いに何かを学ぼうという気持ちになるところまで達したのです。
 しかし、そのときそこにいた社会人類学者がこう発言したのです。
「わたしは今まで一言も発言してきませんでしたが、それは私が『観察者』であるからです。
 我々社会人類学者は、『客観的』な立場から『観察』すべきであることを学んでいます。我々の関心を引くのは、討論の内容ではなく、討論のありようなのです」
 我々は、この「観察者」の話を最後まで聞きました。そして、私は彼に二つの質問をしました。ひとつは「我々の討論の結果について何か認めるものはないのかどうか」、もうひとつは「彼にとって論証や論拠はどうでもいいのか」というものです。
 彼は「観察」に集中するため、我々の討論の詳細を追うことはできなかったと答えました。そして、もし討論に巻き込まれたりしていれば、自らの「客観性」は失われていただろう、と。
 そして、次のように続けました。「もし論証や論拠がみなさんに感銘を与えたとしても、私にとって重要なのは、みなさんにおける相互的な感化作用の兆候なのです。私の関心を惹くのは、譲歩や屈服といった概念であり、議論の内容はどうでもいいのです。また論証について言えば、それは言語行動の一種にすぎないのです。『客観的』に妥当な論証と『客観的』に妥当でない論証の区別などできるわけがありません」
 もうこれ以上、この出来事についてお話しするのはやめにしましょう。この社会人類学者の友人が影響を受けている思想は、「相対主義」です。ドイツで育ってきたこの思想には、客観的真理など存在せず、あるのはだだそれぞれの時代にとっての真理にすぎないとする歴史的相対主義や、真理や科学はそれぞれの集団とか階級にとって存在するにすぎないとする社会科学的相対主義などが含まれます。


感想

 面白かったのは、「客観性」に関する記述。特に第十テーゼの後にある小話。
 この小話に登場してくる社会人類学者のオッサン。彼が考えている「客観性」とは、「第三者的な視点」のことであった。私も「客観的に言って・・・」などとしたり顔で宣うときに、頭の中にあるイメージは、この「傍観者の視点」というものであった。これはこんにち一般的な「客観性」のイメージであると思う。
 けれど、著者のポパーは、「合理的批判」こそが「客観性」だと主張するのである。彼は、どんなに離れて見ていても、我々は党派性や近視眼的な見方を免れ得ないと言うのである。ポパーは、特別な人間に「客観性」が付与されるのではなく、「批判」という「方法」に「客観性」があるのだと言うのである。
 さよか、さすれば、さもありなん。何か頭のモヤモヤがすっきり整理されたような気がする。一般的にいう「客観性」は、「方法」ではなく「人物」に頼っているので、厳密に「客観的である」とは言えないのだ。

 今回は要約するのが難しく、間違いも多いと思う。演繹論理とか理解社会学とか知らんことが多すぎるし・・・・・・。また、第四章の「科学と批判」も難しかったので、途中で挫折してしまいました。チーン。