ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「ソレルのドレフュス事件」川上源太郎著

ソレルのドレフュス事件―危険の思想家、民主主義の危険 (中公新書)

ソレルのドレフュス事件―危険の思想家、民主主義の危険 (中公新書)

 この新書は、十年ほどの間ずっと積ん読のまま放置されていたものである(確か、高円寺の高架下の古本屋で購入したものだったと思う)。先日、たまたま目に付いたのを読んでみたところ、案外おもしろかったので、今回取り上げてみた次第である。
 ソレルは、『暴力論』という、過激なタイトルの論考を著した人物として知られている。岩波文庫から出ている上下巻の『暴力論』も同じく十年ほど前に買っているのだが、こちらは未だに積ん読のままである。おそらくあと数年は積ん読のままなんじゃないかな?と思われる。


 では、まずはじめに、「ドレフュス事件」とは、どのようなものであったか振り返ってみよう。

 ドレフュス事件は、1894年、第三共和制時代のフランスに起こった事件である。それは、スパイ容疑で逮捕されたドレフュス大尉が、ユダヤ人だったこともあり、フランス国内はもちろん、世界中の注目を集めることになった事件であった。
 一般には、反動勢力(政府、議会、裁判所、軍部)が引き起こした悪行に対して、正義の側(新聞、知識人、世論)が団結して勝利した出来事として捉えられている。
 1894年10月29日、反ユダヤ系の新聞「リーブル・パロール」がスパイ事件の存在をスクープする。事実、同年9月末に陸軍情報部のアンリ少佐が、スパイ事件の証拠となる「ボルドロー(明細書)」を入手、秘かに調査が開始されていたのである。容疑者はユダヤ人、アルフレッド・ドレフュス大尉。ドレフュス大尉は容疑を否認したものの、筆跡鑑定の結果ドレフュスに不利な判定が下っていた。
 そんなさなか、「リーブル・パロール」の報道で事件が明るみとなり、同年12月19日に軍法会議が開かれることになる。三日後の22日に判決。ドレフュスには有罪判決が下り、彼は南米にある仏領ギアナの通称「悪魔島」への流刑と処せられた。

 フランスの国論は、ドレフュス派の「人権同盟」(知識人や新聞が中心)と反ドレフュス派の「祖国同盟」(政府や軍部が中心)に二分されることになる。一方が正義と真実の価値を説けば、他方は国家と軍部への尊敬を説いた。
 騒乱のさなかの1898年1月13日、作家のエミール・ゾラは、急進共和派のジョルジュ・クレマンソーの手引きによって、新聞「オーロール」紙上に、大統領への公開質問状「私は弾劾する(J'accuse/ジャキューズ)」を公表する。しかし、その激烈な弾劾文の内容は、伝聞証拠以上の証拠はなく、明白な誤解も含まれていた。それ故、この有名な公開状は、反ドレフュス派の民衆を刺激するだけの効果しか持たなかったのである。軍部に焚きつけられた政府はゾラを告発。有罪の判決が下り、ゾラはイギリスに亡命することになる。

 事件は1898年7月、証拠のひとつとして提出された手紙が偽造であることが判明したことにより、その幕切れを向かえることになる。この手紙はドレフュス有罪の急先鋒であったアンリ少佐によって偽造されたものであった。アンリは事件のもう一人の容疑者、伯爵フェルジナン・ワルサン・エステラジー少佐の友人であった。アンリは偽造の事実を認め逮捕、獄中で自殺を遂げることになる(エステラジーはすでに亡命していた)。

ソレルの判断では、ドレフュス事件の流れを変えたのはゾラの「ジャキューズ」ではなく、アンリ偽書の発見であった。事件の鍵をにぎるのは噂話ではなく、誰も否定しようのない事実である。このとき共和派主流であった進歩派と社会主義者の多数が再審支持にのりだしたのである。(p.83)

 1899年8月、ドレフュス再審。同年9月、ドレフュスは情状酌量で禁固10年の刑。その一週間後、大統領の特赦を受けることになる。
 特赦を受けるかどうかについてはドレフュス派の意見も割れた。なぜなら、特赦の受諾は、同時に罪を認めることを意味したからである。クレマンソーは反対した。クレマンソーは「法の前の平等」という原則によって名誉が回復されるべきだと確信していたからである。しかし結局、ドレフュスは兄たちに説き伏せられて特赦を受諾することになる。
 そして1900年4月、パリ万国博覧会が晴れやかに開催され、一連の騒乱は収束していくことになる。

アレントはいう。「フランスがドレフュス事件において世界の前で演じて見せたドラマは悲劇ではなく茶番劇(ファルス)にすぎなかったということは、最後になってようやくあきらかになる。内部分裂した国を統一し、城内平和を強い、そして極右から社会主義にいたるまでのすべての人間を一致せしめたものは、一九〇〇年の万国博覧会だった。クレマンソーの毎日の社説もジョレスの弁舌もゾラの熱情も貴族と司祭に対する民衆の憎悪もなし得なかったこと、つまり議会の雰囲気をドレフュスに有利なように変えることは、万国博覧会をボイコットされはしないかという不安によってあっという間に実現されたのだ。(p.71)」

 ドレフュスの名誉回復がなされたのは、その6年後の1906年7月のことである。破棄院はドレフュスに下されていた判決を破棄し、ドレフュスは大佐に任命されることになる。

 以上が、ドレフュス事件の一通りの流れである。前述したように、ドレフュス事件は、反動勢力(政府や軍部が中心)の悪行に対して、正義なる言論(知識人や新聞が中心)が勝利した「美談」として、一般的に捉えられている。しかし、ハナ・アレントは、それを茶番劇(ファルス)であったと述べている。そして、この書の主人公ジョルジュ・ソレルもまた、ドレフュス派に属し、そのために活動していながら、ゾラに代表される「知識人」に対しては終生かわらぬ嫌悪感を抱いていたようなのある。それは何故なのだろうか・・・・・・。


 事件当時、ソレルは、ドレフュス擁護運動の副産物として誕生した「民衆大学」で教鞭をとっていた。そしてソレルは、その民衆大学に、ブルジョワの傲慢と偽善、そして厚かましい支配欲を見たのである。
 多くの知識人を輩出するブルジョワは、あらゆる階級を消滅させ「平等」を実現しようとするが、同時進行で、知識人から成る「教師集団」と民衆から成る「生徒集団」に人間を分けようとしていた。
なぜなら、知識人は民衆に、考えるべきこと、言うべきことを指示しなければならない、というのが彼らブルジョワの一大テーゼであるからである。

ソレルが「知識人の政治」と呼んだ、民主主義を楽しむブルジョワジーとは、十八世紀の「勝ち誇る」ブルジョワジーの子孫、世界思想を提唱した哲学者たちの弟子なのであった。ダランベールは、「教える側に立つ人間は、聞き従う側にある人間にむかって、考えるべきことと言うべきことを指図する」といった。ドレフュス事件の時代の知識人も、その気持は同じであった。ダランベールやその仲間のフィロゾーフたちのように、それをあからさまに口に出すほどの戦意も精力も自信もなかった。戦わずに勝つのが彼らの処世術なのである。それでも「教師集団」(ecclesia docens)と「生徒集団」(ecclesia discens)との区別は、「われわれの民主主義においてもなお基本的なものである」。民主主義が階級意識を抑え隠そうとすれば、「文化のヒエラルヒーを維持し、必要とあらば、さらに完全なものにすることを強く要求するだろう」。(p.127-128)

 こうした巧みに隠蔽されたブルジョワの「支配力(フォルス)」に対して、ソレルは嫌悪を抱いていたのである。そして、このフォルスを打ち負かすものとして、ソレルは「暴力」を主張するのである。ソレルの言う「暴力」は、アルベール・カミュの「反抗」によく似た概念である。

ソレルにとって暴力は、上からの抑圧的・支配的な力(フォルス)に抵抗する絶対的な拒否の意思の表明であり、その意志の力である。(p.113)

 読んでいて感じたのは、結局知識人は、右派・左派の区別なく、「支配すること」を目指しているのではないかということだ。
 右派が「愛国心」を掲げ民衆を支配しようとすれば、左派は「ヒューマニズム」を掲げ民衆を支配しようとする。
 そして、民衆の一部が「モッブ」と化した社会においては、モッブは「愛国心」か「ヒューマニズム」か、どちらかの「観念」を絶対視するようになり、それに飲み込まれていくことになるのではないか、ということを読みながら感じたのである。
 私は、「愛国心」も「ヒューマニズム」も、共に大切な価値観であることには同意するが、それを絶対視するのは危険だと思うのである。なぜなら、絶対的なものとなった「愛国心」や「ヒューマニズム」といった観念の下位に人間が存在することになるからである。
 人間が観念に仕える者となってしまうのだ。しかし、人が「安息日の主である」のと同じように、人はあらゆる観念の主であらねばならない、と私は思うのだ。そうでなければ、観念を大切に育んでいくことができないと思うからである。
 ここで一言。先に出てきた「モッブ」とは、ハナ・アレントが定義した言葉で、「階級脱落者」のことである。時代に押し流されて生活基盤を失ってしまった彼らは、常に「不満」を抱え込んでいるので攻撃的な性格を持つ。
 そんな彼らが、失われた生活基盤の代用品として選んだものが「愛国心」や「ヒューマニズム」という観念であったのかも知れない。そしてそういった観念が、あやふやな自分を超える絶対的な存在となっていったのではないだろうか。かつては「神」の概念がその役割を担っていた。しかし、「進歩思想」による啓蒙活動によって、すでに「信仰」というものは迷妄とされ葬り去られていたのである。

 この書によれば、ソレルは「カトリック」の影響を色濃く受けていたようである。ソレル自身の信心についての記述はないのだが、その母はカトリックの厚い信仰を持つ人物であったと描かれているし、また、彼の妻のマリ=ダヴィも熱心なカトリック教徒であったと描かれている。そして、ソレルはこの二人の女性から「道徳的感受性」の影響を受けていたという。
 実際ソレルは「女性は偉大な教育者である。愛は人間をつくり変え、彼の情操を陶冶するものである。われわれを道徳的にするのは女性である(『進歩の幻想』)」と述べており、この二人の女性を強く慕っている。
 だからソレルは、共和国政府が押し進めようとする宗教政策には敵意を抱いていた。なぜなら政府は、その「進歩思想」によって民衆の信仰を葬ろうとしていたからである。彼らは「理性の力」によって民衆を道徳的なものにしようと試みていた。しかし、ソレルはそういった考えに納得していなかった。彼は、公生活における教育によってではなく、私生活における愛情によって、人間は道徳的な存在になると考えていたからである。

 このように、ソレルの指す「道徳性」とは、個々人を拘束するような「義務感」を意味していない。彼にとって「道徳性」とは、個々人の自由な「創造的行為」なのである。それは、個々人の中に秘められた生命力なのである。

ソレルにとって「道徳的」とは「生産的」ということであった。(p.167)

 「生産」と「男女の性関係」、ソレルはこの二つの神秘を人間道徳の基礎と定義した。
 こうした神秘を生きるには、他人から与えられる受動的な自我を捨て去り、自らを生きる能動的な自我を獲得しなければならない。そのために、あらゆる支配を拒絶する「暴力」が必要なのだ、とソレルは主張するのである。それは、ブルジョワが、お裾分けとして持ってくる「福祉政策」や「奢侈」といった誘惑に対する、労働者の絶対的な「拒絶」の意志の表明なのである。

 ソレルは、民主主義の現状を嘆いていたが、もう政治の制度としては民主主義しかないこともよく知っていた。
 それでは、ソレルは、民主主義のどんな点を嘆いていたのだろうか。それは、ブルジョワの民主主義に「道徳」が欠落しているという点に対してであった。
 民主主義自体は一つの政治制度にすぎず、それ自体に道徳や精神といったものを含んではいない。それ故に、民主主義を活かすには、それを動かす人間自体が「道徳的」にならなければならない、とソレルは考えていた。
 またソレルは、民主主義を動かす「民意」は抽象的なものだと考えていた。そして、彼が批判してやまなかったのは、その抽象的な民意の中に自分の価値観を潜り込ませ、民衆に押しつけようとする「知識人」たちであった。
 前述したように、ソレルの「暴力」とは「上からの抑圧に対する絶対的な拒絶の姿勢」のことである。だからソレルは、ブルジョワが与えようとする「道徳」を拒絶し、労働者が独自の「道徳」を取り戻すことによって、民主主義の危機を脱しようと考えたのである。労働者がブルジョワから自立するようになって、初めて民主主義は道徳的に機能するようになるというのである。

 ブルジョワは世界を「平等」にしようとした。しかし、彼らの掲げる「平等」とは、民衆を「ブルジョワの一員」として迎え入れることを意味していたのである。そして、ブルジョワとして均一化された世界のなかで、人間を教育者と生徒とに分け隔て、教育者による啓蒙を通して民衆を道徳的にしようとしたのである。民衆にも、粗野ではあるが彼らなりの道徳はあったはずなのだが・・・・・・。
 また、ブルジョワが主導する議会の目的は「生活水準の向上」にあった。

しかし、ソレルの見るところ、「生活水準」の改善にのみ心を奪われているような労働運動は、はや生産者の運動ではなく、ブルジョワが指導する政治運動の変種にしか過ぎなかったのである。(p.136)

 このようにブルジョワは、労働者を富ませブルジョワ化することによって彼らを懐柔しようとしていた。しかし、ソレルが、ブルジョワジーに求めていたのは、労働者に対する「尊重」であったのではないだろうか。
 置かれている立場や持って生まれた性質の違いに対する、いわゆる「らしさ」に対する尊重であったのではないだろうか。
 実際、ソレルは、性や年齢、職分など、様々な「差異」を強調した思想家でもあるという。

その意味で、ソレルほど、「らしさ」ということを強調した思想家を、私は他に知らない。プロレタリアや暴力の神話によって「プロレタリアらしく」なることを願い、プロレタリアがプロレタリアらしくなることによって、ブルジョワブルジョワらしくなる、とも考えた。(p.106)

 現代においては、ソレルが望んだような「らしさ」を強調することはタブー視されているように思われる。なぜならそれは、同時に「偏見」を強調することにもなるからだ。
 こうした偏見は、啓蒙の不足による「迷妄」によって生じることは明白である。しかしまた、軽蔑や嫉妬、不満といった「負の感情」によっても引き起こされるものである、と私は思うのである。
 「迷妄」は、公生活における教育によって「理性的」に解決されるであろうが、「負の感情」は、私生活における「愛情」によって癒されるしかないと思うのである。
 そのため、人間を道徳的な存在にするには、「理性の力」だけでは足りず、「愛情の体験」も必要である、と私は思うのである。
 そして、その愛情、「無償の愛」は、進歩勢力が迷妄として退けた「信仰の神秘」の中に見出されるものであると、キリスト教信者の私は思ってしまうのである。
 この「無償の愛」は、すべての人が無条件で受け入れられていることを意味している。
 一方、「理性の力」のみによって道徳を根付かせようとする試みは、ある一定の条件を満たさなければ受け入れてもらえないことを意味するのである。人は認めてもらうために背伸びするしかない。そうしたことでは、人々の心の中にある欠乏感は満たされることはないと思うのである。
 その解決されない欠乏感を、ブルジョワジーは「生活水準」の向上によって補おうとするが、それはその場しのぎの解決方法でしかない、と私には思われるのである。

 この書には、ウィンダム・ルウィスやカール・シュミットといったソレルに影響を受けた人物の言説を取り上げた章がある(第六章)。そしてそこでは、「政治づく」ことに対して警鐘が鳴らされているのである。
 なぜなら、我々が「政治づく」ことは、支配者に対する批判力を高めるどころか、かえって操作されやすい存在になってしまうからである。「政治づく」ことは、自分たちこそが真の支配者であるという幻影を抱きながら、ある団体、あるいはある観念に、自ら進んで飲み込まれていくことなのであろう。

 現代に生きる我々は、観念の主人ではなく、観念の奴隷になりやすい。ブルジョワの一員として迎え入れられた我々もまた、支配者になることを望んでしまっているせいであろう。
 そして、観念の奴隷たるためには、十全なる知識と他者への強要だけで事足りるが、観念の主人たるためには、「無知の知」といった知的謙遜と他者への奉仕が必要となるのである。
 現代社会は、理性だけが声高に叫ばれる世界である。それは、右派による支配と左派による支配、どちらが正しいかの選択の世界であるともいえる。
 ソレルが失望していた、そうした支配力(フォルス)の蔓延る世界は終わる気配すらない。支配者たちによる茶番劇(ファルス)は、支配者たらんとする民衆を巻き込んで、今もなお続いているようである。

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【追記】(2018年04月26日)

オスカー・ワイルド 「犯罪者」にして芸術家』宮崎ますみ著(中公新書

 一ヶ月ほど前になるだろうか。中公新書から出ている『オスカー・ワイルド』という本を読んでいたら、ドレフュス事件に関する記述、それも真犯人と見なされている「エステラジー」に関する記述があった。
 エステラジーのひととなりがよくわかる記述であったので、今回、参考までに取り上げてみようと思った次第である。

ワイルドもこの酒宴にしばしば加わっていた。そこでワイルドはエステラジーを「大将」と呼び、大いに意気投合していたのだった。この男はハンガリーの名門貴族、かつてハイドンが仕えていたことでも名高いエステルハージ家の分家の出だが、本人はフランスで生まれたフランス人である。放蕩好きの貴族の血筋なのか、博打に目がなく、妻の多額の持参金を使い果たしたうえに借金で首が回らなくなっていた。
オスカー・ワイルド』(中公新書)(p.252-253)

借金返済に窮した彼はシュワルツコッペンに持ちかけ、陸軍の機密情報を渡す見返りに高額の報酬を得たのである。ドイツ大使館のごみ箱から見つかった問題の紙片(「明細書」)には、砲兵の構成などの重要情報が記されていた。ドレフュス大尉が槍玉にあがったのは、たまたま筆跡が似ていたということに加えて、彼がユダヤ人だったからである。
 ブラッカーから途方もなく貴重な情報を聞いてもさして動じず、冤罪に苦しむドレフュスへ同情を示すどころか、エステラジーへの共感的な態度を変えるふうのないワイルドに、ブラッカーは失望した。
オスカー・ワイルド』(中公新書)(p.253)

 ここに出てくる「シュワルツコッペン」とは、ドイツ大使館の武官で、対フランスの諜報活動をしていた人物であり、「ブラッカー」とは、ワイルドのふるい友人で、ワイルド夫妻の結婚の際には婚姻財産管財人にもなった人物であるという。
 
 ワイルドは、エステラジーに関して次のような感想を述べていたという。

エステラジーは、無実であるドレフュスよりはるかに興味深い。無実なんていうのは常にあやまちだよ。犯罪者たるには想像力と勇気が必要なのだ」
オスカー・ワイルド』(中公新書)(p.257)

 次のような記述もある。

一方、エステラジーは、破廉恥で悪辣なことにかけては中流階級の道徳観を突き抜けていた。「偽善」の対極にあった。ワイルドに恩義のあるブラッカーでさえ見放したのに、エステラジーはワイルドのことを「才人」として尊敬さえしてくれた。
オスカー・ワイルド』(中公新書)(p.263)

 流行の寵児から一転、「同性愛者」として世間の嫌われ者となったオスカー・ワイルド。そんな彼のまわりに躊躇なく寄ってくるのはエステラジーのような人間だけであった。

自身が現実に監獄から戻ってきて、蛇蝎のごとく忌み嫌われる存在になった今、「罪びと」であることはワイルドにとって、逃れたくても逃れようのない生の条件となる。ワイルドがブラッカーを何よりも許せないのは、伝道者的な善意とピューリタン的道徳観がないまぜになった「偽善」だった。
オスカー・ワイルド』(中公新書)(p.262)

 今回、私が興味深く感じたのは、ジョルジョ・ソレルもオスカー・ワイルドも、共にブルジョワジーの「偽善」に嫌悪を抱いているという点である。
 このブルジョワ的偽善は、「罪びと」であるワイルドに対しては容赦なく石を投げつけ、その一方で「潔白」であるドレフュスに対しては温かな手を差し伸べたのである。

 ブルジョワ的偽善は、「潔白」であることを絶対視しているように思われる。しかし、その反動で「潔白でないもの」に対しては厳しい拒否反応を示すようになってしまうのだろう。
 その結果として、「潔白でない罪びと」に対して手を差し伸べるというような善行は、忘れ去られてゆくことになるのだろう。