「イスラム教の論理」飯山陽著
今回は、飯山陽(あかり)著の『イスラム教の論理』をナナメ読みしていこうと思う。
前回取り上げた岩波新書の『ユダヤ人とユダヤ教』は、ユダヤというものを多様な視点から解説した本であったのに対し、本書は、現代のイスラム教、特に「イスラム国」に代表されるような「SNS時代のイスラム教」を重点的に解説した本である。
「イスラム教の論理」とあるように、本書を読んでいると、「イスラム教」という宗教は、何よりも「論理」を重んずる「知性的」な宗教なのだなと感じた。
だから、中世の地中海地方において、あれほどの《繁栄》ができたのかなぁと。
そして、イスラム過激派というのは、この「イスラム教の論理」を《無情》かつ《冷徹》に実行していこうとするイデオロギーなのかなぁ、と感じたのである。
ブログ主は、「宗教」という枠内において、「知性」というものは、信仰生活をさすらい歩くときの友、「杖」のようなものだと捉えている。
がしかし、イスラム教でも、そしてキリスト教でも、この「杖」を、他人を殺戮する武器、「槍」にしてしまう動きがあることは否めないと思う。
『イスラム教の論理』 飯山陽著 新潮新書752 2018年2月20日初版
- 作者: 飯山陽
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2018/02/15
- メディア: 新書
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まずは「SNS時代のイスラム教」に関する記述から取り上げてみましょう。
ところがインターネットの普及により、体制派の穏健派法学者がもっぱらイスラム教解釈を独占する時代は終焉を迎えました。というのもインターネット上ではコーランやハディースのテキストがいくらでも閲覧可能であり、それらを自国語に訳すのも簡単であるため、誰でも手軽に教義を知ることができるようになったからです。
第2章 インターネットで増殖する「正しい」イスラム教徒 (p.52)
「近代的主権国家」として独立を果たしたイスラム諸国は、国際情勢をかんがみ、西欧諸国を刺激しないような《法解釈》を行ってきたのだが、「インターネットの普及」によって、どうやらそれができなくなってきたらしい。
この辺を読んでいると、なんだか日本の「ネトウヨ」のことが思い起こされる。
ネトウヨは、「朝日新聞」に代表されるような既存権威である「マスメディア」に反発する勢力である。また、SNS時代のイスラム過激派も、既存権威である「穏健派法学者」に対する反発なのである。
そして、双方とも、「真面目」な人ほど、人民をたぶらかす「堕落した」既存権威を打倒しようと努力邁進しているように感じられる。
次に本題の「イスラム教の論理」。
神は人間に対してあるべき世界の姿を示し、やらねばならないこと、やってはならないことを具体的に命じました。それを守るのがイスラム教徒であり、守らないのが不信仰者です。イスラム教徒は神の命令に従い、世界中の人々が神の法に従うようになるまで不信仰者の討伐を継続しなければなりません。彼らにとっては、飲酒や男女の混交は目に見える不信仰の象徴であり、優先的に粛正すべき対象です。(略)
ローンウルフ型テロリストが多く出現しているのは、彼らの目に世界が不正とうつっているからであり、神が自分に対してそれを正すべく行動をおこせと命じていると自覚しているからです。
第5章 娼婦はいないが女奴隷はいる世界 (p.176)
冒頭の繰り返しになるが、イスラム教という宗教は、「知性」を、それも「神の知(と彼らが呼ぶもの)」を何よりも重んずる宗教なのだと思う。そして、この点は、「穏健派」も「過激派」もかわらないのだと思う。
そして、日本人の一般的な宗教観である「ココロ教」。この宗教の特徴は、何よりも「情」を重んずるところにある。「論理」よりも「情」なのである。
しかしながら、イスラム教、特に過激派は、「論理」のためには「情」を捨てるのもいとわない、という信仰感を持っているようである。
そして、ここに「根本的相違」が存在する。
また同時に、イスラム教の宗教観は、「近代西洋思想」の一般的な価値観とも「根本的相違」が存在するようである。
というのも、近代西洋思想は、「神の知(イスラム教が重んずるもの)」ではなく、「人間の知」を何よりも重んずるものだからである。
そして、近代思想が、「人権」や「民主主義」といった「人間の知」を世界中に浸透させたいのと同様に、イスラム過激派は、「神の知」であるイスラム法を世界中に浸透させたいのである(それも殺戮をも厭わない無情な方法によって)。
本書を読んでいて強く感じたことは、こうした「視点の根本的な違い」が存在することを認めなくてはならない、ということである。そして、相手の「視点」を知らなくてはならない、ということである。
「人権」などの近代思想の視点から、もしくは「情」の視点から、イスラム教を見つめてみても、それでも確かに彼らの姿は「見える」のだが、そこに「イスラム教の視点」を欠いているならば、それは「不十分」だと思うのである。
最後に、本書に載っていた気になったエピソードをば。
たとえばエジプトでは、仕事中に礼拝を始めたら最後、驚くほど長時間仕事に戻らない人が少なくありません。エジプト政府職員600万人は1日あたり平均27分しか実質的に労働していない、という公式の調査結果があるほど、エジプト人労働者の非生産性は顕著であることが知られています。
第7章 イスラム社会の常識と日常 (p.223)
1日の実質労働時間、なんと「27分」!! ス、スバラシイ! これは、是非ともあやかりたいものである♪