「キリスト教は役に立つか」来住英俊著 を買った
【ザックリとしたまとめ】本書の売り文句に『キリスト教の〈教養〉は、「孤独」に効く!』とある。なぜなら、キリスト教を学ぶことによって、神との〈語らい〉が始まるから。
本書は、ドストエフスキーからラノベまで、幅広いエピソードでもって〈キリスト教的視点〉なるものを解説した書。
使われている用語も平易で、サクッと読める稀有な宗教書!
- 作者:来住 英俊
- 発売日: 2017/04/27
- メディア: 単行本
本書は、全50項目のコラムから構築された、とても読みやすい宗教書だ。
一つひとつのコラムは短いながらも(だいたい1コラム2500字程度)、キリスト教的な視点を教えてくれる。
また、宗教系の書は用語が難しくトッツキにくいのだが、本書の言葉はとても平易なので、読んでいても眠くならないところが👍👍👍。
でもって、本書の中で特に興味深かったのが〈第3章〉だ。
この章は14個のコラムから構成されている。
冒頭の三つのコラムは、「37 他人への怖れ」「38 世界への怖れ」「39 自分への怖れ」となっており、現代人が抱えている「ぼんやりとした不安」がメインテーマ。
「38 世界への怖れ」において、この「ぼんやりとした不安」が描写されている例として挙げられているのが〈ライトノベル〉📖。
私はある時期、必要があって、いくつかのライトノベルを読みました。「涼宮ハルヒ」シリーズとか、『イリヤの空、UFOの夏』とか。少し驚いたんですが、ライトノベルの世界はかなり暗い。若者同士のノリのいい対話もあって、それはたしかに明るいのですが、世界観は暗いものだと感じました。自分たちが暮らしている小さな世界(たとえば学校)があり、その外には自分たちが知らない広い世界がある。そして、その広い世界は邪悪さを帯びたものである。そういう世界観です。
「世界への怖れ」(p.177)
著者の来住(きし)氏は、この「ぼんやりとした不安」は、私たちが子供の頃から聞かされてきた無数の言葉によって織りなされている、という。
積み重ねてきた私たちの経験が「警戒セヨ!」と教えてくれるもの、それが「ぼんやりとした不安」なのだ。
そして、経験が「警戒セヨ!」と囁きかけるのは、「他人」も「世界」も、そして「自分自身」さえも「不確実なもの」だからだ。
他人は、とつぜん怒り出すかもしれない。
世界は、とつぜん狂い出すかもしれない。
自分自身だって、とつぜん崩壊してしまうかもしれない。
これらのものは皆、この先どうなるかワカラナイ「一寸先は闇」のものである。
でもって、このコラムの中で来住氏が言っているのは、このような「一寸先は闇」の世界に、キリスト教は「大丈夫な場所」を与えるだろう、ということだ。
というのも、キリスト教の信仰者にとっては、〈イエス・キリスト〉こそが、この闇の世界に降誕された「光」であり、たったひとつの「確かなもの」であるからだ。
だけれども、信仰者じゃないフツーの人たちにとっては、このキリスト教の「神」こそが「不確実なもの」の代表格であろう。
キリスト教の「神」こそが闇なのであり、私たちの小さな世界をおびやかす邪悪なものに映るのだ。
そこには、「神」に対する〈不信〉があろう。
そして、この〈不信〉を解消していくには、日々日常の中で「神」と〈語らう〉ことが効果的!
「39 自分への怖れ」でフィーチャーされているのは、新約聖書の「金持ちの青年」のエピソードだ。
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【簡略版:金持ちの青年の話】
ある金持ちの青年がイエスのもとにやってきて、「天国に行くにはどんなことをすればよいのですか?🤔」と尋ねる。イエスは基本的なことを教えるのであるが、青年は「ウヒャヒャヒャ🤣、そんな基本的なことは朝飯前に済ませてますゼ😤」とイキりだす。そんな青年をイエスは優しく見つめて「お前に一つだけ欠けていることがある。持っているものをことごとく売り払って貧しい人に施せ。それから私に従え」と答えるのだ。山のような財産を持っていた青年は🥺となって帰っていく。
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でもって、このコラムで教えられているのが、「本当の私はドコにいる」といったものと〈語らい〉の重要性。
私たちも、この「金持ちの青年」のように『ハタシテ自分の今の生き方は「👍」なのか「👎」なのか』といった不安を抱えて生きている。
そして、私たちは、自らを正しさの〈型〉にハメることによって、この不安から逃れようとするのだ。
けれども、来住氏が指摘しているのは、キリスト教的な生き方とは、このような正しさの〈型〉にハマるような生き方ではない、ということ。
本書の冒頭部分で、来住氏は〈キリスト教信仰の真髄〉を次のようにまとめている。
キリスト教信仰を生きるとは、正しい教えに従い、立派な人物の模範に倣うことではない。
キリスト教信仰を生きるとは、人となった神、イエス・キリストと、人生の悩み・喜び・疑問を語り合いながら、ともに旅路を歩むことである。
その旅路に終着点は、「神の国」と呼ばれる。
「はじめに」(p.6)
このように来住氏は、正しさの〈型〉よりも、神との〈語らい〉の方を重要視しているのだ。
私たちは、人と〈語らい〉つつ、自分の道を見つけ、成長して行くものだと言える。
そして、私たちがノビノビすこやかに成長していくためには、何でも気兼ねなく話せる「よき理解者」が必要。
来住氏にとっての「よき理解者」は〈イエス・キリスト〉。
人間相手の場合は、やはりどこかで自己制御せざるをえません。一回かぎりならともかく、しょっちゅうこんな愚痴を言っていると、しだいに相手に敬遠されそうです。「じゃあ、さっさと辞めたら」と突き放されてしまうかもしれません。愚痴の内容も、自分の人格を疑われそうなところまで言うのは危険な気がします。しかし、神が話し相手であれば、何の気兼ねもいりません。時にどんなにひどい罵倒をしてしまっても、それが私の気持ちのすべてでないと、神にはちゃんとわかっているからです。
「神には文句も言える」(p.50)
キリスト教が「役に立つ」一面は、この「よき理解者」がいつもそばいる、という点にあるのかも。
信仰者たちは、いつでもどこでも、嬉しい時も悲しい時も、順調な時も困った時も、彼と〈語らう〉ことができる。
また、次の点は本書では指摘されていない〈ワタクシなりに感じたこと〉なのだが、「金持ちの青年」との会話の中でイエスは「それから私に従え」と言った。
何より重要なのは「イエスに従うこと」。
やはり、正しさの〈型〉に自らをハメて不安を解消するよりも、「イエスに従って」、彼と〈語らい〉つつ生きていく方がいいのだ。
きっと、「金持ちの青年」は『あれはやった、それもやった、でもこれはまだやっていない、ど、どうしよう、すべてできてないわたしは「👎」なのかもしれない😱😱😱』と、ずーっと不安のうちに過ごしてきたのだろう。
そんな青年にイエスが言いたかったことは「自分が〈型〉にはまっているか、いちいち気にするなら、そんなもんすべて打ち捨てて、オレっちについて来い!!」ってなことではなかろうか。
私たちが〈型〉にハマることによって「👍」となるのではない。
私たちが「👍」と〈語らい〉つつ歩むことによって、「👍」に近づいて行くのである。
つまり、私たちの「よき理解者」、この「神」こそがたったひとつの「👍」なのだ。
以上のことから言えるのは、正しさの〈型〉にハマった私が「本当の私」なのではない、ということだ。
「本当の私はドコにいる」。
「本当の私」は、「よき理解者」と気兼ねなく〈語らう〉トコロにいるのだ。