ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「非社会性の心理学」加藤諦三著

 前回エントリーの「モンスターマザー」の回でこの書を取り上げたのだが、だいぶ前に読んでおり記憶があいまいになっていたので「モンスターマザー」に取りかかる前に読み返してみた。ついでに要約もやってみました。

まとめ

 日本に非社会性が蔓延してきている。非社会性とは、当たり前の感情を持っていない人のことをいう。

ラジオのテレフォン人生相談で、浮気をしている奥さんに「子供を浮気のときに連れていくなんてとんでもない」と言うと、「そうですかー」と不思議そうな声を出す。これが非社会性である。(p21)

 非社会性の人たちは「純真で真面目」な人たちである。しかし、その内面は成熟することなく、いつまでも十代の(もしくは一定の)価値観のままである。
 なぜ人は非社会化するのか。それはコミュニケーションができないからである。なぜコミュニケーションができないのか。それは自己無価値感に蝕まれているからである。自己無価値感に蝕まれ、相手に自分を良く見せようと焦るあまり落ち着きを失うから、相手とコミュニケーションできない。心の問題を抱えているから、相手とふれあうことができない。
 非社会的人たちは、当たり前のことを無視し、正しいことの一本槍である。「嘘も方便」を無視して、「嘘はいけません」の一本槍である。
 非社会的な人たちは、かつて大切な人からの「保護と安全」を求めて、気に入られようとした。気に入られようとする故に、自分を出せず、コミュニケーションできなかった。その結果、疑似成長した。

疑似成長した人は非社会的になる。つまり「よい子」になる。不安と恐怖感でコミュニケーションできていないから共通感覚がない。当たり前の感情がない。ここで自明性が失われる。(p101)

 人間として自然な感情を生じさせるためのコミュニケーションに必要なのは、ありのままの自分が許されているという親しさである。自分という存在が大切な人から受け入れられれば、人は人を殺さない。逆に、生まれてからふれあっていなければ、人は人を殺せる。
 会津若松で母親の首をバックに入れて警察に出頭した少年。彼は中学校では活発であったが高校で「一変した」という。ということは中学校までは疑似成長だったと言うことである。彼は中学校まではプレッシャーに耐えてがんばったが、その間、誰とも心がふれあってはこなかった。こうした少年たちは、社会に過剰適応して、疑似成長している。
 近代人にとって生きることは自明なことではない。生きることを学ぶ前に考えることを学んでしまうと生きることが知的合理主義に振り回されることになる。生きることを大切にできないと「命の尊さ」を感じることはできない。
 秋葉原殺傷事件の加藤容疑者は実際の年齢と心理的年齢の間にギャップがある。幼児期の甘えの欲求が満たされていないので、大人になっても甘えの欲求は消えず、心理的に大人になれない。幼児的願望が満たされないままで社会性は身につかない。身についた様にみえてもそれは疑似成長である。
 この成熟ギャップは彼だけのものではなく、広いすそ野を持った社会現象である。かつて成熟ギャップはなかった。生活空間に中身があったからである。しかし近代化の中で生活空間から中身は失われた。その結果、形式の中で生きていくことになった。
 こうした状況の中で、日本人は心理的に自立ができなくなってきている。自立に必要な愛情が枯渇しているからである。日本は自立できない若者で溢れているが、その対策は自立を促すものが多い。しかし心理的に前に進むためには後退を認めなければならない。加藤容疑者が心理的に成長するためには、幼児期に後退し、幼児期の課題を解決しなければならない。
 近代化以後、生活の全領域がシステム化された結果、人が互いに支え合うこともシステム化され、お互いが固有の存在ではなくなり、個別化した。コミュニケーションで自分を守るのではなく、個別化で自分を守る。
 また今の日本は、自由と平等を間違って解釈している。友達先生とか友達親子のような、対等な人間関係が理想の人間関係と錯覚することで人間関係が貧しくなった。平等は対等と言う意味ではない。師弟、親子は対等な関係ではなく上下関係であり、上下関係のままでも心がふれあえるのである。友達先生や友達親子のような対等な人間関係では、その人その人が固有の意味を持たない。平等とはそれぞれが自分自身の固有の人生を歩んでいく権利があるということである。
 木や花など自然と語り合える人。そういう人が豊かな人であり、エネルギッシュな人である。心に余裕がなければ自然と語り合えない。エネルギッシュな人と言うとすぐに猛烈サラリーマンを思い浮かべるが、そうではない。彼らは単に傷ついた心を癒すためにがんばっているのかもしれない。

感想

 私も、いつ怒り出すかわからない父親の顔色をうかがう幼少期を過ごしてきており、大人になった今でも自己無価値感にさいなまれているので、この書で取り上げられている非社会性の人々は他人事ではないのである。さらにカトリックの洗礼を受けてしばらくたった後、「父である神」の概念が、この「不機嫌な父」の概念に乗っ取られて、愛である神が自分勝手で理不尽な神になってしまい、自己無価値感をより深く刻んでしまうことになったのだから深刻な問題なのである。
 自己無価値感の故に、自己優越感を感じようとして必死になる。その優越している自分とは、「ありのままの自分」ではあり得ず、かつて親に求められた「よい子の自分」の亡霊でしかない。(以前にこの辺の心理状況を「木」という詩に吐き出してみた。「木」 - ハキダメ記
 ありのままの私が私という固有の存在になりきれず、ありのままの私を隠し持つ個別の存在にしかなれない苦しみを私は痛いほど知っている。ある意味、近代にソフィスティケイトされた人間と気取ってみせてもいいのかもしれないが、これは加藤諦三氏の言う「過剰適合」だろう。
 まず「愛情」を体験しなくては、人は安心して「みじめな私」として生きていかれないのだろう。愛情を知らなければ、みじめな私として成長していくことはできないのだろう。愛情を知らないから、みじめな私は「あこがれの私」になることで認められたいと願い、どんどん心を傷つけていくのだろう。大切にされることなく、大切にしろというのは理解できるわけがない。
 だから愛情を知らずに「みじめな私」を必死になって隠している人達に、どんなに熱心にキリスト教の素晴らしさや正しさを伝導したところで、誰一人居着くことはないだろう。素晴らしさや正しさは「みじめな私」にとって居心地が悪いからである。
 まあ、こう言ったことは心理的な問題で、精神科の方で解決すべき案件であるのだろう。たしかに私も神の概念が狂ったときに、教会に通う回数を減らして、加藤諦三氏などの心についての本を読んで対処したから。しかし、こう言った問題に無力な宗教というのも寂しい話だと思うのである。