「ユダヤ教の人間観 旧約聖書を読む」エーリッヒ・フロム著 その1
この本は「宗教なんて、なんかウサン臭いし、堅苦しそうだし、なんかイヤだわ、近寄りたくないわっ。......でも、人生に意義をもって生きていきたいわっ、ステキな目標をもって生きていきたいわっっっ!」という人むけの本だろう。
- 作者: エーリッヒフロム,Erich Fromm,飯坂良明
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1996/06
- メディア: 単行本
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この本の著者は『自由からの逃走』で有名なフロムである。
本書は、フロムが「ユダヤ教」について、特に「旧約聖書」について語った本、それも「ヒューマニズム」の観点から語った本である。
フロムは、この書の中で「信仰」の代替としての「x経験」なるものを提唱している。
フロムは、「信仰なし」であっても、《慈悲》ぶかきヒューマニストたりえること、そしてそうあるための目標「x」を示そうとしたのである。
今回は、「x経験」をメインに取り上げ、次回は、「偶像崇拝」などを取り上げていこうと思う。
前説(いんとろだくしょん)
「罪を犯したことのないものがその者に石を投げなさい」というイエスの有名な言葉がある。
ハキダメ氏はカトリックの人なのであるが、このイエスの言葉のような《慈悲》を求めて入信したはずなのに、ダメな人(自分自身を含む)に向かって投げつける石を手にしていることに気づき、ビックリすることがある。
そして、その時の私は「《慈悲》を欠いた冷たい教義」こそが「神の《慈悲》」なのだと言って、石を投げつける自分を「正当化」しているのである。
がしかし、《慈悲》を欠いた冷たい教義というものは、炭酸が抜けたぬるいコーラのようにイヤ~なものである。
《慈悲》を求めて入信したはずなのに、いったいドーシテ、かような《無慈悲》な行いを正当化するようになってしまうのか??
本書を読んでいると、その理由は、「神観念」というものが《イデオロギー化》してしまうからだということが分かってくるのである。
フロム流の無神論
著者のフロム自身は、「信仰」を持たない人であったらしい。「訳者あとがき」に次のような記述がある。
フロムは少なくとも二六歳までは厳格な伝統的ユダヤ教を遵奉していたようである。けれども彼は、「宗教的なものであれ政治的なものであれ、とくかく、人間を分裂させるようなものに加担したくはない」ということで、それまでのユダヤ教を止めてしまった。
「訳者あとがき」(p.329)
フロムは「信仰」から離れてはいたが、だからといって「宗教反対論者」になったわけではない。
フロムは、宗教の中に流れる「ヒューマニズムの要素」を高く評価していた、ということも「訳者あとがき」には書かれている。
「宗教」を離れたフロムは、自分自身を「非有神論的な神秘主義者」と位置づけていたという。
こうしたフロムの態度は、「神信心」を特に持たない、現代日本人の態度と似ており、だからこそ受け入れやすいものではなかろうか。
《根源的ヒューマニズム》の道、そして《慈悲》の道
この「非宗教的」なフロムが本書で提示したのが、「信仰なし」であっても「正義と愛の精神(p.71)」をもって生きてゆける、という「《根源的ヒューマニズム》の道」である。
神を信ずるものにも信じないものにも通用する全人類的な一つの信仰、一つの価値観、つまり彼のいう「根源的ヒューマニズム」を提唱しようと試みるのである。
「訳者あとがき」(p.331)
ダライ・ラマ法王もまた、こうした道を模索しているのである。
いずれ当ブログでも取り上げる予定なのだが、ダライ・ラマ法王はそうした著書を何点か著している。
そして、ダライ・ラマ法王が提唱する道は「《慈悲(もしくは慈愛、アガペー)》の道」である。
私たち日本人には、《根源的ヒューマニズム》という表現よりも、《慈悲》とか《慈愛》といった表現の方がシックリきて、わかりやすいのではなかろうか。
一般に、宗教界は「やれ、儀式だ」とか「やれ、戒律だ」などと何かと口うるさく堅苦しい世界のように捉えられている。
がしかし、そんな堅苦しいことをしなくても、人は「ヒューマニスト」たりえるし、「《慈悲》ぶかく」ありえるというのが、フロムおよびダライ・ラマ法王の主張するところなのである。
そして、この「《慈悲》の道」を歩むための「道しるべ」として、フロムが持ち出してきたのが「x経験」なるものである。
では、この「宗教」の代替としての「x」とは、いったい何なのだろうか???
宗教的経験とは《慈悲》の経験である
神観念を受け入れることのできない人々は、ユダヤ教を構成する観念体系の外に身をおくことになるが、しかし、「正しい生き方」を人生の第一目標として追求しようとするかぎり、彼らは、ユダヤ教の伝統的精神にきわめて近いといえよう。この「正しい生き方」とは、儀式をとり行うとか、多くのユダヤ教特有の戒律を守るとかいうことではなくて、現代生活という枠の中で正義と愛の精神をもって行動することにほかならない。
「第二章 神について」(p.70-71)
《慈悲》は宗教の専売特許ではない。
前述の繰り返しになるが、フロムは、「信仰」を持たなくとも、人間は《慈悲》ぶかく行動することができると言っている。
では、《慈悲》ぶかく生きるためには、どうしたらいいのだろうか。
頭をまるめて、出家すればいいのだろうか?
...サニアラズ。
《慈悲》ぶかく生きるためには、宗教的体験の中にも流れている、ある「経験」が必要なのだ、とフロムは言うのである。
宗教的体験にはどうしても神観念が必要なのであろうか。わたしはそうだとは思わない。「宗教的」経験なるものは、人間的経験であって、それは有神論的、非有神論的、無神論的、そして極端なばあいには反神論的な観念でさえあらわすことができるとともに、そうしたいろいろな観念の底を流れるある共通のものだともいうことができよう。違いは、経験を観念化するさいに出てくるのであって、観念になるまえの経験は同じである。
「第二章 神について」(p.75)
この「観念の底を流れるある共通の」経験が、「x経験」なのだとフロムは言うのである。それはつまり「《慈悲》の経験」なのだと思う。
人は他人から存分に慈しまれたというような「《慈悲》の経験」があってこそ、他人を慈しむ喜びを知るのではなかろうか。
...フロム自身は、「x経験=《慈悲》の経験」とは言っていない。がしかし、本書を読んだハキダメ氏が、「要するにコーユーことだろ」と一方的独断的高圧的牽強付会的に理解したのである。
............だから、間違っていたらゴメンナサイ、ウフッ。
また、この《慈悲(もしくは慈愛、アガペー)》。
これを「キリスト教的」に表現するならば、これは「神の似姿」と呼ばれるものであり、そしてすべての人に内在するものなのである。
次回の「偶像崇拝」の記事でも書く予定だが、崇拝すべきは、お金でも名誉でも、人間の教えでも人間そのものでもない。これらは「偶像」にすぎない。
我々が崇拝すべきは、《慈悲》なのである。
そして、人が《慈悲》以外の偶像を崇拝するようになったとき、「神観念」は《イデオロギー化》してしまうのである。
《イデオロギー化》する「神観念」
昔の人は、《慈悲》に向かえばこそ、人間の自由と独立と理性を発展させることができると悟った。
そして、《慈悲》、向かうべき目標「x」に「涅槃」や「神」といった名前を与えたのである。
そのままこの道を歩み続けられればよかったのだが...そうは問屋が卸さない。
けれども、目標たるこのxは、じきに絶対化され、そのまわりに一つの体系が構築された。すき間は多くの仮定で埋められ、ついには、各体系の作り上げた虚構の「付加物」の重みによって、本来、共通にもたれたまぼろしはほとんど消失するにいたった。
「第二章 神について」(p.28)
《慈悲》よりも「体系」の方が重んじられるようになり、その結果として「神観念」から《慈悲》は失われ、「神観念」はいとも簡単に《イデオロギー化》してしまうのである。
このあたりのことを、ハキダメ氏は次のような「たとえ話」で表現してみました。
かつて、生きている木々は、恵みの陽をふりそそぐ太陽に向かって、その枝を伸ばすことで、自身を成長させることができていた。
そして、《慈悲》ぶかい太陽が木々の向かう目標であった。
しかし、いつのまにか『ただしい「成長の仕方」』といった「体系」が造られるようになり、「体系」に沿って生きることが求められるようになり、そしてもはや木々は太陽に向かわなくなったのである。
フロムは言う。「観念は、経験と結びついてこそはじめて生きる」と。
太陽という「観念」があり、ここに木々の成長という「経験」が結びつくのである。
であるから、「体系」によって、太陽と木々が切り離されてしまうのなら、その「体系」は、単なる人間の工作物、単なる《イデオロギー》にすぎない。