ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「ニューエイジについてのキリスト教的考察」その2

教皇庁 文化評議会/教皇庁 諸宗教対話評議会
ニューエイジについてのキリスト教的考察」
JESUS CHRIST THE BEARER OF THE WATER OF LIFE:
A Christian reflection on the "New Age"

ニューエイジについてのキリスト教的考察

ニューエイジについてのキリスト教的考察

要約

当該部分は、著作権法に触れる可能性があるため、削除しました。(2017.11.11)

新しく書き直したものがあります。こちらをご覧ください。(2018.12.4追記)
uselessasusual.hatenablog.com

感想

 読みながら感じたのは、「人格」っていうものは「面倒くさい」ということであった。
 「非人格」の神が、もてはやされている理由も、この点にあるのではないだろうか。今を生きる私たちは、「人格」そのものにウンザリし、「人格」と付き合うことに疲れ果てているのではないだろうか。
 だから、いつも意識することになる「神のイメージ」を、このウンザリする「人格」に重ね合わせることを、「無意識のうちに拒絶」しているのではないだろうか。肉体のある他人とは違って、「神のイメージ」は、逃げることもできず、朝から晩まで側にいることになり、私たちをチェックすることになるからである。
 私自身も父なる神のイメージが、実際の父や周りの人物たちのイメージに乗っ取られ、「私の神」が、ネチっこく絡みつく、口うるさい神になってしまった経験がある。

 だから、「無人格のもの」にあこがれる気持ちは、シミジミとよく分かるのである。私たちは「人格」の所為で、「心が病んだ状態」に陥らされてきたからである。ある意味、「人格」によって「救いを求める」状態にまで追いつめられてきたのだ。
 それなのに、救いを求めて「人格である神」へと向かった挙げ句、逃げることもできず、「朝から晩まで」苦しむことになったなら、それはあまりに救いがない話ではないか。
 だから、それよりも、「無人格のもの」に向かった方が「安らぎ」を得られると考えたのもムリはない。

 今まで出会った「人格」は誰ひとりとして手を差し伸べても救ってもくれなかったのである。ただ、あざけりと軽蔑と打擲を与えるだけだったのである。「人格」は、私のみじめさといたらなさという「私自身」に対して打擲を加えるだけだったのである。
 「人格」なんて、冷たく人を傷つけるものでしかない。神が、その「人格」だなんてことは、とうてい受け入れられない。私たちを支配するものは、何もない温もりこそが望ましい、と考えたのもムリはない。
 「非人格のもの」による「融合」を夢見るのは、「よい」か「わるい」かは別にして、ちゃんと筋が通っていると思う。

 しかし、思うに、私たちを傷つけてきた「人格」というのは、「愛の枯渇した人格」、つまり「他人に依存する人格」だったのではないだろうか。愛を依存にすり替えた「人格」だったのではないだろうか
 依存心は、みじめさやいたらなさを見ると虫酸が走る。それらには依存できないからである。だから、彼らは私たちをあざけり打擲するのだ。
 私たちの出会ってきた「人格」は「幼稚な人格」でしかなかった。私たちは「すべての人格」に苦しめられてきたのではなく、人格の一部を占める「幼稚な人格」に苦しめられてきたのではないだろうか。

 「幼稚な人格」に苦しめられてきた私たちが、「すべての人格」から遠ざかり、「非人格のもの」に移行することで「自己実現」できるというのは本当だろうか。
 その「非人格のもの」がもたらすとされる「調和」もまた、「あいまいな依存」といえるのではないだろうか。差異や区別といった「他者性」を排除した「一体感」なのだから
 「他者性」を尊重することのうちに「自己」というものも確立するのではないか。他者性を排除した「人間の真のアイデンティティ」は「無」でしかないと思う。

 かつて、「幼稚な人格」のもとで、一体感のために「よい子」にならなくてはならなかった。
 そして今、「非人格のもの」のもとで、一体感のために「無」にならなくてはいけないというのだろうか。
 結局、「私は私でいられない」のだろうか。私は「よい子」か「無」にならなくてはいけないのだろうか。
 他者性を排除することのない、「ままならない私」を受け入れてくれる、成熟した一体感も、この世のどこかにあるのではないだろうか。

 私も、何もないあたたかさの中で感じる一体感、というものに憧れる気持ちはある。けれど、私が、本当に望んでいるのは、こんな私のグチを黙って聞いてくれる、私とは別の「人格」なのだ。ダメな私を受け入れてくれる「人格」なのである。
 それは「あいまいな」人格はなく、「自分と異なる」人格なのである。その時にこそ、二人の深い溝の間に渡す、愛という橋が必要になるからである。

 というのが、今回の感想だが、キリスト信者の「人格」が、みな「成熟」しているのかと問われたら、答えはひとつ「NO」である。残念ながら、そう単純なものでもないのだ。