ハキダメ記

読書録(主にキリスト教関連)

「自由からの逃走」エーリッヒ・フロム著 前編

『自由からの逃走』 エーリッヒ・フロム著 日高六郎訳 東京創元社刊 現代社会科学叢書 昭和26年12月30日初版 昭和40年12月15日27版(新判)

自由からの逃走 新版

自由からの逃走 新版


 フロムは言う。近代人は、ついに「自由」を勝ち取った、と。しかしそれは、「第一次的絆」からの解放という、「消極的な自由」にすぎなかった、と。
 この「第一次的絆」とは、他人や自然との原初的な一体感のようなものであり、母と胎児とをつなぐヘソの緒のようなものであり、人に安定感や帰属感や地に足を着けている感じを与える絆のことである、とフロムは言う。

 フロムは、中世の西欧社会には、この「第一次的絆」が残っていた、と述べている。そして、この「第一次的絆」と聞いて、私が思い起こしたのは、渡辺京二氏の著作『逝きし世の面影』に収められている、開国したばかりの日本を訪れた外国人たちが残した言葉の数々である。そのころの日本には、まだ「前近代的」な文明が残っていたのだ。

 クロウは木曾の山中で忘れられぬ光景を見た。その須原という村はすでに暮れどきで、村人は「炎天下の労働を終え、子供連れで、ただ一本の通りで世間話にふけり、夕涼みを楽しんでいるところ」だった。道の真中を澄んだ小川が音をたてて流れ、しつらえられた洗い場へ娘たちが「あとからあとから木の桶を持って走って行く。その水を汲んで夕方の浴槽を満たすのである」。子どもたちは自分とおなじ位の大きさの子を背負った女の子も含めて、鬼ごっこに余念がない。「この小さな社会の、一見してわかる人づき合いのよさと幸せな様子」を見てクロウは感動した。これは明治十四年のことである。
渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社ライブラリー(p.13)

 
 こうした原初の絆を断ち切って、近代人は自由となった、とフロムは言う。そして同時に、近代人は「不安」に取り憑かれることになった、と。
 甘い絆を喪失することによって、近代人は「個人」となったが同時に「孤独」になり、やがて自由を重荷と感じるようになったのだ、とフロムは言う。

かれは独りぼっちで自由であるが、しかもまた無力でなにものかを恐れている。新しく獲得した自由は呪いとなる。かれは楽園の甘い絆からは自由である。しかし自己を支配し、その個性を実現することへの自由は持っていない。(p.44)

 フロムは言う。この「個性を実現することへの自由」の獲得、いわゆる「積極的な自由」を獲得することこそが肝要であるのに、呪われた近代人は、喪失した「第一次的絆」の代替としての「新しい絆」と結びつくことによって、自らの「不安」を解消しようとした、と。

他人や自然との原初的な一体性からぬけでるという意味で、人間が自由になればなるほど、そしてまたかれがますます「個人」になればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性のなかで外界と結ばれるか、でなければ、自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるか、どちらかだということである。(p.22)

 近代人が生成した「新しい絆」は、「自由や個人的自我の統一性を破壊する」の方の絆であった。そして、この絆に結びつくことは「自由からの逃走」を意味するのだ、とフロムは言う。
 この「新しい絆」は、われわれが喪失した「第一次的絆」とは似て非なるものであるという。そしてフロムは、この「新しい絆」とは「服従」にすぎないことを指摘している。
 「積極的な自由」を伴わない「消極的な自由」のみの獲得は、最終的には人びとに「新しい絆」と結びつくこと、すなわち「自由からの逃走」の道を選択させるものなのである。


 また、フロムは言う。自由から逃走する際に、近代人は「動的(ダイナミック)な適応」をするものだ、と。
 このダイナミックな適応とは、たとえば、子どもが厳格で恐ろしい父親の言いつけに従って、「よい子」になるような現象を指す。しかし、これもまた「服従」の一形態にすぎない。

 本書において、フロムが主張しているのは、「よい子」になることによって親子の絆を維持し、その絆によって不安を回避しようとするのではなく、「自我を発展させること」によって不安と孤独とを回避していこうということに他ならない。そしてそれは、「積極的な自由」を獲得することを意味する。

 そして、この「よい子」問題については、テレフォン人生相談のパーソナリティである加藤諦三氏の著書に、次のような記述がある。

 人間の自己実現について、深い研究をしたアメリカの心理学者マズローは、その著書の中で次のようなことを言っている。
 子供は自分自身の喜ばしい経験と、他人からの是認の経験とどちらを選ぶべきかという時には、たいてい他人からの是認を選ぶ。そして自分の喜びの感情は殺す、あるいは目をそらす。小さい子にとって、周囲の人の心を失うほど恐ろしいことはないからだ。そしてそれらの子供は人知れず精神的死をもって人生が始まる、と。
加藤諦三著『人生の悲劇は「よい子」に始まる』PHP文庫(p.25)

 この「他人からの是認を選ぶこと」が、「新しい絆と結びつくこと」と同義であるといえるだろう。加藤諦三氏の著書には続けてこう書かれてある。

 たしかに、人を喜ばそうとすること自体は悪いことではない。しかし、その動機が、相手から認められ、賞賛されたいということによるものだと、問題が生じてくる。
 マズローの言葉を使えば、「成長動機」から人を喜ばせようとすることはよいが、「欠乏動機」からそうしようとすることは好ましくない。それは間違いであるという。
加藤諦三著『人生の悲劇は「よい子」に始まる』PHP文庫(p.26)

 また、父親への恐怖心から「よい子」になった子どもは、父親に対し強い敵意を抱くようになるが、彼はその敵意を「抑圧」するようになる、という。なぜなら、それを表したり、意識したりするのは危険だからである。先の加藤諦三氏の著書には、次のような記述がある。

 認識している自分は本当の自分ではないと知り、それを受け入れることができた時、その時はじめて抑圧が解消される。本当の自分とは、今の自分が決して許さない人間だったという事実を認め、その自分を受け入れるのである。それは本人にしてみれば、実は地球は地球ではないのだと言われるよりも大変なことである。
加藤諦三著『人生の悲劇は「よい子」に始まる』PHP文庫(p.115)

 「よい子」になることによって生じた「抑圧」。この「抑圧」は、「本来の自分」を受け入れることができた時にのみ解消されるという。そして、「本来の自分」とは、「よい子の自分」が嫌悪し見捨てていた存在だという。
 しかし、われわれは、「自分以外の何ものか」になることによって、皆に是認されるような存在になりたいと欲してしまうものではないのだろうか。われわれは、案外容易に「服従」の道を選んでしまうものではなかろうか。それを「服従」とも思わずに・・・・・・。


 フロムは「消極的自由」の根源を、「宗教改革」に見いだしている。宗教改革は伝統的な教義や社会から個人を解放し、自由にした。しかし、同時に人びとを孤独と不安に陥れたのである。
 フロムは、ルッターのいう「愛」や「信仰」の実体は、心理学的には「服従」に他ならないことを指摘している。

かれは意識的には、神への「服従」を自発的な愛にみちたものといっているが、かれは無力感と罪悪感にみちている。かれの神への関係は服従の関係にほかならない。(ちょうど、他人へのマゾヒズム的な依存が、意識的にはしばしば「愛」と考えられているように)。(p.77)

 
 フロムは言う。われわれの資本主義社会は、「利己主義」の追求によって発展してきた、と。そして、資本主義の発展は、人間の「無力感」を強めた、と。
 しかし、本来ならば、「利己主義」の発展によって、われわれの「自我」もまた発展し、その結果、われわれの「無力感」は解消されてしかるべきではないのか。
 この問いに答えるために「利己主義」というものに目を向ける必要がある。われわれの自我を成長させるものは何なのであろうか。

 本書においてフロムは、自我を成長させるものは「利己主義」ではなく「愛」であることを指摘しており、また「利己主義」というものは「愛」とは全く異なるものであると述べている。

憎悪は破壊を求めるはげしい欲望であり、愛はある「対象」を肯定しようとする情熱的な欲求である。すなわち愛は「好むこと」ではなくて、その対象の幸福、成長、自由を目指す積極的な追求であり、内面的なつながりである。それは原則として、われわれをも含めたすべての人間やすべての事物に向けられるように準備されている。排他的な愛というのはそれ自身一つの矛盾である。(p.131)

 フロムの言う愛とは、「弱く儚い人間の成長を見守る温かいまなざし」のようなものであり、愛の通俗的観念である「特定の人のみに向けられる熱いまなざし」を意味するのではない。それは「執着」にすぎないという。

ただ一人の人間についてだけ経験されるような愛は、まさにそのことによって、それは愛ではなく、サド・マゾヒズム的な執着であることを示している。(p.131-132)

 そしてフロムは、利己主義な人間は、深い「自己嫌悪」を抱いているということも指摘している。つまり、われわれの「利己主義」は、「自分に対する愛」を意味しているのではなく、自分に対する「愛の欠如」を意味しているというのである。

よく観察すると、利己的な人間は、いつでも不安気に自分のことばかり考えているのに、けっして満足せず、常に落ちつかず、十分なものをえていないとか、なにかを取り逃しているとか、なにかを奪われるとかいう恐怖に、かり立てられている。かれは自分よりも多くのものをもっている人間に、燃えるような羨望を抱いている。さらに綿密に観察し、とくに無意識的な動的な運動を観察してみると、この種の人間は、根本的には自分自身を好んでおらず、深い自己嫌悪をもっていることがわかる。(p.132-133)

 このように「自己蔑視」に陥った人間は「内面的な安定」を持たない。そして、フロムは、利己主義とは「貪欲」のひとつなのだと述べている。なぜなら、利己主義的な人間は失われた「内面的な安定」を得るために、あらゆるものを「貪欲」に求め続けてしまうからである。同じようなことを、加藤諦三氏は次のように述べている。

つまり、自己中心の人というのは、自分の内面に自分の拠り所がない人である。自己中心とは、自己不在なのである。
 もっとも、自己中心という言葉自体に問題がある。自己中心という時の「自己」とは、依存心のことであろう。つまり本来は自己中心といわないで、依存心中心というべきなのかもしれない。
加藤諦三著『人生の悲劇は「よい子」に始まる』PHP文庫(p.160)

 フロムは言う。近代人の自我とは、「社会的な自我」にすぎない、と。他人の是認を求める近代人は、社会的に認められている「社会的自我」を貪欲に追求していくのである。
 このことから、近代人は、「自分以外の何ものか」になることによって自己実現を果たそうとしているように思われる。
 近代人は、もはや「本来の自分」というものを見捨ててしまったようだ。「本来の自分」は、皆が望むものを何一つ持っていないのだから・・・・・・。

かれは実際にはもはや、かれが打ちたてた世界の主人ではない。逆に、人間の作った世界が人間の主人となった。その主人の前に人間は頭をさげ、できるだけ愛想をいい、ごまかしている。自分の手でした仕事が、自分の神になったのである。(p.134-135)

 今や、「よい子」になることや「社会的自我」を獲得することが、われわれ近代人の使命となっているように思われる。しかし、「よい子」も「社会的自我」も「人間の作った世界」にすぎず、そして、その世界に「本来の自分」が住むことはできないのである。
 そして、この「人間の作った世界」、近代人が生成した「新しい絆」とは、「前近代の幻影」にすぎないのかもしれない。母の胎内のような、なつかしき「前近代」の・・・・・・。

 「第一次的絆」を断ち切り、「消極的自由」を勝ち取り「個人」となったが、「不安」に苛まれ、個人になりきれない近代人は、「本来の自分」というものを犠牲に捧げることによって、「前近代的」な世界へ戻ることを欲しているのかもしれない。
 しかしもう、その世界は喪失されているのであり、戻ることはできないのである。そして、われわれ近代人に残された道は、「積極的自由」を獲得し、自我を発展させる道しかないのだということを、フロムは言いたかったのだと思う。


 次回【後編】は、サディズム的・マゾヒズム的衝動を中心に述べていきたいと思います。


逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)