「愛するということ 新訳版」エーリッヒ・フロム著 オマケ
前回記事のオマケ。
本書において、フロムはさまざまな「愛のかたち」を分析している。
フロムによれば、「自己愛」は「利己主義」と同一視されがちだが、全く逆の性質のものだという。
そして、「利己的な人間」は、他人はもちろん、自分自身すら愛することができないのだという。
「神への愛」は、「西洋的思考」と「東洋的思考」における姿勢の違いに影響を受けるのだという。
そして、西洋的な「神への愛」は「思考上の体験」のことであり、東洋的な「神への愛」は「感覚上の体験」のことなのだという。
- 作者: エーリッヒ・フロム,Erich Fromm,鈴木晶
- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 1991/03/25
- メディア: 単行本
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本書において、フロムは、兄弟愛・母性愛・異性愛・「自己愛」・「神への愛」といった、さまざまな「愛のかたち」を分析している。
前回記事のオマケとしての今回は、この中から「自己愛」と「神への愛」の二つを抜粋して触れてみたいと思う。
まずは、フロムの「自己愛」から。
フロムは、自己愛にたいする「偏見」について述べている。
他人を愛するのは美徳だが自分を愛するのは罪だという考え方も広く浸透している。すなわち、人は自分を愛するほどには他人を愛さないとか、自己愛は利己主義と同じことだとみなされている。
「第二章 愛の理論」(p.92)
こうした「偏見」にたいしてフロムは言う。本来的な自己愛は、利己主義とは「まったく正反対」のものである、と。
そして、利己主義について、フロムは次のように述べている。
利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。いや実際のところ、彼は自分を憎んでいるのだ。
「第二章 愛の理論」(p.97)
こうしたことは、フロムの言う愛が「慈愛」もしくは「アガペー」を意味しているのだということが分かれば、理解しやすいのではなかろうか(前回記事参照のこと)。
つまりは、利己主義の人は、自分を「エロス」的に愛しているにすぎないのである。
エロース [ギ]eros
一般には自己中心的な愛や性愛を意味するが、ギリシアのプラトン系哲学ではイデア的精神世界に対する知性的魂の情熱、教父にあっては神に対する合一的愛の意味で用いられた。中世のラテン語訳amorも上述の意味をもつ。しばしばアガペーと対比的に語られる。
『岩波 キリスト教辞典』(p.162)
「利己主義」あるいは「エロス」的な愛は、「弱いものにそそがれる」性質のものではなく、「優れたものにあこがれる」性質のものである。
そして、「自分自身への愛」と「他人への愛」はリンクしているものだという。
つまりは、自分を「アガペー」的に愛せる「自己愛的」な人こそが、他人をも愛せる人なのである。
一方で「利己的な人」は、いっけん自分自身を愛しすぎているようにみえるが、実際には「真の自己」を愛することができず、同時に他人を愛することもできない人なのである。
私たちの人生の課題は、エロス的な「利己主義」を抜け出しながら、アガペー的な「自己愛」を育むことなのかもしれない。
つづいては、フロムの「神への愛」。
フロムはまず、「西洋的思考の姿勢」と「東洋的思考の姿勢」の違いに着目している。
両者の違いは、次のようにまとめられる。
・「西洋的思考の姿勢」−《アリストテレス的論理学》を土台にするものであり、神を「思考」によって捉えようとするもの。
・「東洋的思考の姿勢」−《逆説論理学》を土台にするものであり、神は「思考」によって捉えることはできないとするもの。
《逆説論理学》では「行為」が重視されるのだという。
生活のすべては、神を知るために捧げられる。ただし、正しい思考によってではなく正しい行いによって知るのである。東洋の宗教には、このことがはっきりとあらわれてくる。バラモン教でも仏教でも道教でも、宗教の究極的な目的は、正しい信仰ではなく正しい行いである。
「第二章 愛の理論」(p.119)
そして、このような《逆説的な姿勢》は、正しい思考を究極の真理としないので、自分とはちがう原理の人びとと争う理由ものなく、「寛容」につながるものだという。
《アリストテレス的な姿勢》では、これが逆になり、「思考」が重視されるのだという。
最高の真理は正しい思考のうちにあると考えられていたために、正しい行為も重要だとされたが、おもに思考が強調された。そのため、宗教においては教義体系がつくりあげられ、教義の表現をめぐってはてしない議論が繰り返され、「無信仰者」や異端者にたいしては不寛容であった。
「第二章 愛の理論」(p.120-121)
こうした「思考」の重視は、西洋において教義だけでなく「科学」をも生んだのだという。
フロムは、「西洋的思考」と「東洋的思考」の違いを次のようにまとめている。
要するに、逆説的思考は、寛容と、自己変革のための努力を生み、アリストテレス的な姿勢は、教義と科学を、すなわちカトリック教会と原子力の発見を生んだのである。
「第二章 愛の理論」(p.121)
こうした「西洋的思考の姿勢」と「東洋的思考の姿勢」の違いが、「神への愛」というものにも影響を及ぼすのだという。
フロムは、「神への愛」の違いを次のように要約している。
西洋における支配的な宗教体系では、神への愛は、本質的に、神を、神の実在を、神の正義を、神の愛を、信じることと同じである。神への愛とは本質的に思考上の体験なのである。東洋の宗教や神秘主義においては、神への愛は一体感という感覚上の強烈な体験であり、それは、生のすべての行為においてその愛を表現することと不可分に結びついている。
「第二章 愛の理論」(p.122)
...正直、フロムの上記の要約は、ブログ主にとってチンプンカンプンであった。
「神への愛」の違いは分からなかったが、「西洋的思考の姿勢」と「東洋的思考の姿勢」の違いを取り上げるというフロムの着眼点が、ブログ主には新鮮でとてもおもしろく感じられたので、今回ムリヤリ記事にした次第である。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。